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■ア行
【オモニハッキョ】

戦中戦後における貧困や差別により、文字の読み書き(識字)を十分に学校で学ぶ機会を与えられなかった在日コリアン1世、2世などの女性を対象に行われている識字学級(学校・教室)。神奈川県、大阪府、福岡県などの在日が多く居住する地域で開かれている。学級名はさまざまで、学級により運営形態も異なるが、週に1~3回程度の開講で、その多くはボランティアにより運営されている。生野オモニハッキョではひらがなや漢字を学ぶ在日コリアン対象の識字学級であるが、福岡県にある「青春学校」では在日コリアン1世だけでなく、日本人高齢者、さまざまな外国籍住民が習っている。それぞれの学級における活動の中心は、日本語の識字学習であるが、公立の夜間学校開校を目指した「学ぶ権利」の獲得や、「多文化共生社会」の実現に向けての役割も果たしている。

 

■カ行
【外国人登録法/外国人登録証明書】

前身である外国人登録「令」が1947年にポツダム勅令として施行。その実質的目的は、旧植民地出身者である朝鮮人と台湾人の管理であった。登録証明書の常時携帯および提示義務と罰則などが定められた。1952年のサンフランシスコ平和条約の発効によって外国人登録「法」となる。出生・上陸などに必要とされる登録事項、市町村長による登録原票の管理、居住地などの変更登録などが定められ、登録の際に指紋押捺義務が課せられた。92年改正で永住者と特別永住者への指紋押捺義務が廃止、99年改正で非永住者の指紋押捺義務も全廃された。一方で、登録証明書の常時携帯および提示義務は残り、違反者には刑事罰(懲役1年以下または20万円以下の罰金など)が課された。国連規約人権委員会から3回に渡って廃止すべきと意見が出された。2012年改定で外国人登録法が廃止され、「在留カード」と「特別永住者証明書」交付による、法務省の一元的在留管理体制となり、特別永住者のみ携帯義務が免除された(提示義務は残る)。

 

【光州事件(光州闘争)】

1980年5月、韓国で軍事独裁政権であった全斗煥(チョン・ドファン)政権に対して、全羅南道光州の学生市民による抗議行動がおこなわれた。それに対して、政権側は空挺部隊などを投入して鎮圧し、その過程で多数の犠牲者が出た事件。光州の学生市民と、それを鎮圧しようとする戒厳軍の攻防は5月18日に始まり、一時、武装した市民軍によって戒厳軍が市外に撃退されたが、6000人余りの戒厳軍による一斉攻撃のあった27日まで続けられた。死者は政府発表でも193人にも及んだ。長く続く韓国の独裁政権の時代、生死をかけた民主化闘争の歴史的事件として記憶される光州事件は、韓国の社会運動が急進化する重大な転機となった。留学生や作家などを媒介にして、在日コリアン社会にも大きな影響を与えた。

 

【帰化】

他国の国籍を取得し、その国の国民となること。在日コリアンの帰化の背景には、就職や結婚における厳しい民族差別や、アイデンディティの多様化がある。「帰化」という言葉は本来「君主」のもとに服する意味を持ち、帰化手続きの際には、5年以上の居住や素行良好などの要件のほか、日本的な氏名の使用や指紋押捺、「帰化動機書」の提出が強要されてきた。在日コリアンは戦前、帝国臣民として日本国籍を保持し、サンフランシスコ平和条約発効後に一方的に日本国籍を喪失させられた歴史を持つ。しかし帰化要件の緩和は認められず、帰化時に屈辱的な経験に遭うことも多かった。帰化後も民族的に生きる道を求めた「民族名をとりもどす会」の裁判闘争により、87年に初めて民族名での取得が実現し、94年に帰化申請時の指紋採取はなくなった。また2003年からは特別永住者に限って「帰化動機書」が不要となるなど簡素化に向かっているものの、いまだ大量の書類提出を求められる場合もあり、時間と労力を要する煩雑な手続きとなっている。

 

【京都朝鮮学校襲撃事件】

2009年12月4日、京都朝鮮第一初級学校の校門前で、「在特会」のメンバーらが拡声器を通して民族差別的な罵詈雑言を連呼した。各種学校という財政困困難状況に対する地元住民の理解の下、学校の前の公園をグラウンド代わりに使用していたことを排外主義運動の理由に歪曲した在特会は、公園に設置していたスピーカーの配線を切断するなどもした。教員たちは授業を一旦中止し、子供たちが外に出ないように避難させた。事件後も長らく、一部のこどもたちはPTSD(心的外傷後ストレス障害)に苦しんだ。2013年10月7日、京都地裁(一審)は、この事件は人種差別的動機にもとづく犯行であると、在特会側に損害賠償金1225万円、半径200m以内の街宣禁止命令を出した。翌年7月8日、大阪高裁での判決(二審)では、一審の判決内容を変えず、判決文に「民族教育」の権利について触れた。同年12月9日、最高裁は在特会側の上告を棄却し、一審・二審が確定した。事件後五年がたってようやく、ヘイトスピーチが日本の社会問題として認識されはじめた。

 

【(人権保障としての)「居住の権利」】

「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約」(略して、社会権規約)第11条1項には、「居住の権利」規定があり、条約の締結国にはこれを守る人権条約上の義務がある。国連・社会権規約委員会によると「強制立ち退きは原則的に人権規約に反する」と解釈されている。この規約に1979年に日本政府も批准している。

 

【金嬉老(キム・ヒロ)事件】

1968年、在日コリアンである金嬉老が金銭問題のこじれから静岡市内で暴力団員2名をライフル銃で射殺。寸又峡(すまたきょう)温泉に逃走した金嬉老は、温泉旅館に宿泊していた13人の客と従業員を人質にして立て籠もるものの、88時間後に逮捕された。立て籠もったとき、マスコミに自らが受けてきた民族差別を訴え、世間の注目を集めた。裁判では、差別問題を法廷に持ち込みたくない検察側と、事件の前提となった朝鮮人に対する差別問題抜きに裁判はできないとする被告側の攻防が繰り広げられた。結果1972年6月、金嬉老は無期懲役の判決を受けた。日本での保護観察は認められなかったものの、1999年に31年ぶりに身柄拘束を解かれ、韓国に帰国した。日本社会に潜む民族問題を世間に知らしめ、韓国社会に在日コリアンの置かれている状況を考えさせるきっかけとなる事件であった。

 

【クズヤ/バタヤ/寄せ屋】

クズ(紙、布、ガラス、金属類などの廃品)の中で値打ちがつくものを買い集めて、問屋に売る商売で、戦前戦後の在日コリアンの主要な生業の一つであった。クズヤは各家庭を回って買い取るので「買い屋」あるいは「寄せ屋」とも言われた。一方で、道端のクズを拾って問屋に持ち込む人々は、バタヤ(=拾い屋)と呼ばれた。クズヤ・バタヤが集めたクズを買い取る問屋は、仕切屋と呼ばれ、都市周縁のスラムや朝鮮人集住地区に多かった。仕切屋はクズを買い取るだけでなく、長屋を設けて、そこにクズヤ・バタヤを住まわせ、リヤカーなど商売道具を貸すなどしていた。高度経済成長期以降、清掃事業によってこれら一連の業界は、廃棄物回収やちり紙交換などの事業に内容を変化していった。

 

【百済】

紀元前18年(『三国史記』(1143年)による)~660年まで朝鮮半島南西部にあった国の名前。前期の都は漢城(現在のソウル)であり、拡大を続ける高句麗と死闘を繰り返した。その後、南方へ領土を拡大し、後期には泗沘(しび)に都を移し、倭国(当時の日本)との同盟を強固にするが、新羅・唐の連合軍との戦いに敗れ、滅亡する。

 

【軍人勅諭】

1882年、明治天皇が陸軍海軍に下した勅諭。天皇による軍の統率が強調され、忠節、礼儀、武勇、信義、質素の5つの基本徳目を示し、同時に軍の政治関与を厳に戒めたもの。「軍人の死は羽毛よりも軽い」「上官の命令は天皇の命令」などと説いた。教育勅語とあわせて、日清・日露戦争から太平洋戦争が終わるまでの間、戦争遂行の精神的基盤として機能した。

 

【建国(白頭学院)】

大阪市住吉区遠里小野にある韓国系の私立学校法人で、建国幼・小・中・高等学校を擁する。解放直後、神戸・須磨でゴム工場を経営する曺圭訓と戦中に伊丹の商業学校で教員をしていた李慶泰が朝鮮人徴用工約2000人を会員に白頭同志会を結成。同会を母体に1946年4月、現在の地に白頭学院建国工業学校・高等女学校を開設(生徒2000人)、翌年建国中学校と改称した。曺と李がそれぞれ初代理事長と校長を務めた。1948年高等学校、1949年小学校を開設。1951年学校法人となり民族学校では初めて学校教育法の一条校としての認可を受けた。南北いずれの国旗も掲げず民団系総連系双方の生徒を受け入れていたが、経営難解消のための支援金受入れを主な理由に1977年韓国系学校に転換した。

 

【皇国臣民ノ誓詞(こうこくしんみんのみことのり)】

朝鮮半島は日本の侵略戦争遂行のための兵站基地として位置づけられ、軍需物資や労働力の供給を担わされることとなった。日中戦争突入後、日本政府は「内鮮一体」をうたい、1937年から朝鮮人に対して「皇国臣民化」政策を行った。これは朝鮮人の民族性を奪い、天皇への忠誠心を育て、日本の戦争遂行に協力的な朝鮮人を作ることを目的とした同化政策であった。その中で朝鮮人は「皇国臣民の誓詞」を暗誦し、天皇の臣民として天皇に忠誠を尽くすことを誓うことを強要された。「皇国臣民の誓詞」の大人用は次のとおりである。〈一. 我等ハ皇国臣民ナリ、忠誠以テ君国二報ゼン。二. 我等皇国臣民ハ互イニ信愛協カシ以テ団結ヲ固クセン。三. 我等皇国臣民ハ忍苦鍛練力ヲ養ヒ以テ皇道ヲ宣掲セン。〉

 

【高齢者無年金問題・障害者無年金問題】

国民年金法が1959年に成立し、高齢者や、障害を持った人などの安定した生活を保障するための年金制度が開始された。当初、この制度は日本国籍を持たない人々を除外する国籍条項を設けていたため、在日コリアンは加入できなかった。1981年の難民条約批准以降、国籍条項が消え、外国籍者も年金制度に加入できることになった。しかし、国籍条項によって年金制度に加入できなかった在日コリアンで、(1982年1月時点で成人に達していた)障害のある人、(1986年4月時点で)60歳を超えていた人は、完全に無年金状態で放置されることになった。一方で、沖縄や小笠原諸島からの引き揚げ者や、中国残留孤児や拉致被害者に対しては、無年金状態を防止するための経過措置が取られており、明らかな国籍・民族差別的な対応がなされた。1973年に大阪府を訴えた塩見日出さんの裁判(障害疾病の認定時点で外国籍であったことを理由に障害年金から排除されたことを訴えた)を皮切りに、在日の高齢者や障害者が東京、京都、大阪、福岡と相次いで無年金裁判を起こしたが、いずれの訴えも退けられている。

 

■サ行
【在特会】

正式名称「在日特権を許さない市民の会」。植民地支配という歴史的背景を無視し、在日コリアンに特別永住資格が与えられていることをもって、在日コリアンにだけ特権があるかのような言説を巻き、その特権を廃止して在日コリアンを「他の外国人と平等に扱う」ことを名目上の目標として掲げ、2007年に結成された。2016年現在、メール会員数16000人超であることを自称。在日コリアンをはじめ、在日外国人全般、障碍者や被差別部落出身者など、幅広くマイノリティへのヘイトスピーチ・ヘイトクライムをおこなっている。街頭を歩きながら拡声器で「朝鮮人を殺せ」などの差別発言を繰り返し、全国各地で何度も逮捕者を出している。インターネットの動画サイトで自らの街宣活動を拡散して差別を扇動する。

 

【在日韓国青年同盟(韓青)】

前身は1945年結成の朝鮮建国促進青年同盟(建青)。1950年に民団の傘下団体となった。1960年に現在の在日韓国青年同盟に改編。61年に、朴正煕軍事政権のはじまりともいえる「5.16クーデター」が起こる。これに反対した韓青に対して、民団は締め付けを強めた。その後、韓青は、65年の日韓法的地位協定での権利要求や、69年の入管法改正への反対運動などを展開。韓国での軍事政権が続くなか、民団内部での勢力対立は過激化していく。72年に民団は韓青の傘下団体認定を取り消した。翌年、韓青は民族自主権の確立、韓国の民主化、祖国の自主的平和統などを組織要綱に掲げた韓国民主回復統一促進国民会議(韓民統)の傘下に入った。89年に韓民統は在日韓国民主統一連合(韓統連)に改編。

 

【在日大韓基督教会】

在日コリアンのキリスト教の団体。併合前に渡日した留学生らが中心に宣教活動をはじめ、1908年に東京教会が設立。各地に布教活動が広まっていくが、1930年代後半から日本の軍国化によって日本語使用を強制されたり、治安維持法による弾圧を受けた。その後、1941年に日本基督教団に強制的に合同させられたが、解放後、1945年12月に在日本朝鮮基督教会連合会を創立して脱退した。1948年、在日大韓基督教会総会と改称した。出入国管理法案反対、外国人登録法の改正要求、民族差別反対など、在日コリアンの抱える不条理に取り組むとともに韓国の民主化にも寄与してきた。

 

【在日本大韓民国民団(民団)】

大韓民国を支持する在日コリアンで構成された民族団体。解放後、朝連が日本共産党の指導下で左傾化したことに反発した在日コリアンらが、「朝鮮建国促進青年同盟」(建青)「新朝鮮建設同盟」(建同)を結成。これらを母体に、在日コリアンの生活安定と文化向上、国際親善を組織綱領とし、1946年10月「在日本朝鮮居留民団」が結成された。1948年8月に大韓民国が樹立されると、名称を「在日本大韓民国居留民団」に変え、韓国の公認団体となる。その際、「大韓民国の国是遵守」と「在留同法の権益擁護」が綱領に加えられた。1965年の日韓条約において、一世・二世の「協定永住」権が実現することに伴い、朝鮮籍から韓国籍への変更を促す活動に奔走した。70~80年代にかけては、社会保障における国籍条項や、指紋押捺を撤廃させる運動を展開した。90年代、特別永住資格に結び付く働きかけや、地方参政権を求める運動など、日本での定住化を前提とした公民権運動を展開した。94年に「居留」の二文字を削除し、「在日本大韓民国民団」となった。在日社会の多様化・変化に対応できずに組織衰退が進むという、総連と共通の課題は民団にもあてはまる。2005年から、団員は韓国籍に限定せず、朝鮮半島にルーツをもつすべての人に拡大した。

 

【在日本朝鮮人総連合会(総連)】

在日コリアンの帰国、生活、教育などの問題解決のため、解放直後から全国各地で自然発生的におこなわれていた自助活動を母体に、1945年、在日朝鮮人連盟(朝連)が結成。発足当初は、あらゆる立場の朝鮮人がかかわっていたが、共産主義の立場が多数を占めた。1948年9月に樹立した朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を支持することを組織方針に取り入れた朝連は、さらに日本共産党に集団入党する。反共体制を確立したいGHQと日本政府は、民族学校の閉鎖など、朝連に対する弾圧を強め、1949年に朝連を強制的に解散させた。その後、朝連の後継団体である「在日朝鮮統一民主戦線」(民戦)までは日本共産党の影響下にあった。しかし55年に「共和国の海外公民」とする路線転換を経て、日本共産党と決別し、金日成と朝鮮労働党の指導の下、総連が結成された。結成時の組織綱領として、在日同胞の共和国の周囲への結集、祖国の平和統一、在日同胞の民主的民族的権利の擁護、民族教育の実施、日朝親善と世界平和への貢献などが採択された。60年代初頭には、全国に地方本部を置き、数多くの傘下団体と事業体、幼稚園から大学に至る民族学校など、現在まで続く組織体系が確立された。70年頃、在日コリアンのほぼ半数である20万人ほどを抱える全盛期となった。90年代以降、北朝鮮の食糧危機や脱北者の急増、拉致問題などによって組織の衰退が加速した。衰退のもう一つの要因としては、多様化を含めた在日社会の変化に対応できずにいる点が挙げられる。99年には世代交代と日本定住を視野にいれた方向転換が提唱された。

 

【再入国許可】

入管法第26条に基づいて、日本国に在留する外国人で在留期間の満了の日以前に再び入国する意図をもって出国しようとする外国人を対象にして入国許可を法務大臣が出国に先立って与える制度である。再入国許可を受けた外国人は、再入国時の上陸申請に当たり、通常必要とされる査証が免除される。これに対して、外国人が再入国許可を受けずに出国した場合には、その外国人が有していた在留許可及び在留期間は消滅してしまう。2009年の入管法改正により、「有効な旅券」を持った一般の外国人は1年、特別永住者は2年以内の出国に関して、再入国の許可をうけたものとみなすことになった(「みなし再入国許可」)

 

【三・一独立運動】

1919年3月1日、日本の植民地支配下にあった朝鮮半島で、全人口の一割にあたる200万人が起こした独立運動。当時、ウラジオストク、上海、アメリカ、ハワイなど各地の朝鮮人留学生たちは「学友会」などの集まりを組織し、独立運動のための準備をしていた。国際情勢的にも、被抑圧民族の民族自決権擁護を謳ったロシア革命の成功や、第一次世界大戦後のパリ講和会議でのウィルソン米大統領が民族自決を説くなど、民族独立の兆しが高まっていた。そのような中、東京に留学中の600人の朝鮮人青年たちが、神田のYMCA会館で「2.8独立宣言」を決議。これを受け継いだ多くの朝鮮人が、ソウルのパゴダ公園で独立宣言書を朗読し、「独立万歳」を叫びながら街をデモ行進した。この三・一独立運動は朝鮮全土に拡大した。日本からは、虐殺や拷問などを含む激しい弾圧を受け、死者7645人、負傷者4万5562人を出した。

 

【産米増殖計画】

朝鮮総督府は1920年から1933年にかけて「産米増殖計画」という農業政策を実施した。当時、日本国内では、第一次世界大戦をきっかけに物価が上昇、米の価格が高騰し、1918年には全国的な米騒動が起こった。この対策として日本国内への安定した安価な米の供給を図るために、朝鮮における米の生産高を大幅に増加させようとした。灌漑施設の増設、耕地の整理が行われ、米が増産され、日本人地主は大きな利益を得た。しかし、朝鮮人の小規模自作農民たちは生産した米も十分に与えられず、農業経費増大のため経営難に陥り農地を手放す農民が増え、その多くが小作農に転落していった。また、米の生産高は1.27倍増加したのに対して、日本への輸出量は3.27倍も増加したため、朝鮮内部において食糧が大幅に不足し、米価が高騰した。この結果、朝鮮農民の生活はますます破壊され、多くの民衆が仕事を求めて朝鮮半島の外へ流れて行かざるを得なかった。朝鮮半島北部の民衆は陸路から中国東北地方へと、南部の民衆は玄界灘を越えて日本へとやってきたといわれている。1920年に約3万人であった在日朝鮮人の人口は、20年代を通じておよそ10倍に急増した。

 

【GHQ/SCAP】

連合国軍最高司令官総司令部(General Headquarters of the Supreme Commander for the Allied Powers)の略称。1945年8月14日、日本がポツダム宣言を受諾した後、連合国によって置かれた対日占領機関。1945年8月14日に連合国軍の1国であるアメリカ陸軍のダグラス・マッカーサー元帥が連合国最高司令官(SCAP)に就任。同年10月2日に東京で総司令部が設置される。1951年4月11日にアメリカ大統領のトルーマンがマッカーサーを解任した後、米軍のマシューリッジウェイ中将が最高司令官についた。1952年4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効されるまで、GHQが指示・命令を出し、日本政府がそれを実施するという間接的統治がおこなわれた。アメリカはGHQに対して最も強い影響力を持ち続けた。

 

【出入国管理及び難民認定法(入管法)】

GHQ占領下の1951年に制定された「出入国管理令」は、アメリカの帰化移民法を母体とし、「在留資格」「在留期間」を組み合わせて外国人を管理することを基本としていた。解放後、当時の在日外国人のほとんどは在日コリアン(60万人)が占めた。その在留資格・期間をすぐに確定できなかった日本政府は、暫定的な法(法126)で管理した(その後の在日コリアンの法的地位に関しては「協定永住と特別永住」の項を参照)。69年3月に法務省は「出入国管理法案」を提出するが、在日コリアンや華僑などのオールドカマー外国人に加え、べ平連(ベトナムに平和を!市民連合)などに所属する日本人らが、「入管体制」への反対運動を展開し、阻止する。81年に日本が難民条約に批准したことに伴って、難民認定制度が導入されたため、「出入国管理および難民認定法」という現在の法律名に改められた。2012年の改定で、市区町村管轄での手続きが多かった外国人登録法を廃止し、外国人管理を法務省に一元化し、強化させた。

 

【創氏改名】

1939年に朝鮮総督府によって出された政令。朝鮮固有の男系血統による「姓」を、日本の家制度の呼称である「氏」に変え、朝鮮人を天皇を頂点とする家父長制に組み入れようとした政策。また名前についても、日本式の「名」に改めるよう促した。「内鮮一体」をうたう皇民化政策の一環。

 

■タ行
【第二次日韓協約】

1905年11月に、日本が大韓帝国(朝鮮)に対する優越権を確立するために結ばれた協約で、「乙巳(ウルサ)条約」とも呼ばれる。ポーツマス条約で国際的な孤立状態に置かれた大韓帝国が、ついに外交権も奪われ、事実上日本の保護国となった。

 

【頼母子講(たのもしこう)】

金融の融通を目的とする民間互助組織。一定の期日に構成員が掛け金を出し、くじや入札で決めた当選者に一定の金額を給付し、全構成員に行き渡った時、解散する。朝鮮では契(계)と言われるものに近い。家庭生活で一時に多額の経費や協力を必要とする。婚礼、喪礼、家屋の普請や農地の購入などに備えて組織する婚姻계、喪布계、貯蓄계等が代表的なものである。

 

 

【祭祀(チェサ)】

亡くなった祖先を敬うために行われる、朝鮮半島の伝統的な儒教的儀礼。在日コリアン社会にも継承され、一世たちは日本にいながらも故郷と同じように、家族・親戚が一堂に揃って祭祀をおこなった。「法事」と呼ばれることも多い。朝鮮にまつわる絵や文字が書かれた屏風、故人の遺影、朝鮮の伝統的な食べ物が規則正しく並べられる。原則的に長男の家で営まれる。一世、二世世代までは、高祖父母までの命日、陰暦の元旦や秋夕(チュソク)などの豊穣儀礼も行っていたため、毎年10数回にも及んだ。世代が進むにつれて、回数が整理されたり、お供えする食べ物なども簡素化されたりしていく。世代を問わず、在日コリアン同士で共有できる民族的な経験として挙げられることが多い。一方で、お供えする料理の準備を女性がおこない、儀礼の執り行いを男性のみで進めるなど、儒教における家父長主義的な特徴への批判もある。

 

【済州島四・三事件】

植民地支配からの解放後、朝鮮半島は米ソの分割占領の下におかれ、社会主義陣営と資本主義陣営との間でイデオロギー対立が激化した。1947年3月1日の島民集会において、警察による発砲で6名が死亡する事件(三・一節事件)が発生。米軍政への反発を強めた島民の抗議行動を封じ込めようと、米軍主導のテロや拷問が横行する状態に陥った。そんな中、米国は新国家(韓国)樹立のために南朝鮮で単独選挙をはじめ、南北分断に反対する島民たちは1948年4月3日に武装蜂起を決行。これに対する米軍政および国防警備隊による武力鎮圧の過程で、朝鮮戦争が休戦状態になる7年間に一般市民を含む島民三万人近くが犠牲になった事件。四・三事件に言及することは韓国では長くタブーとされていたが、2000年に事件の真相究明と犠牲者の名誉回復をうたった「済州4・3特別法」が制定され、2003年には盧武鉉大統領が国家権力による大規模虐殺と認めて謝罪した。

 

【(朝鮮人)強制連行】

日本は戦争の拡大・長期化で不足する兵士の数を補うため、1938年に陸軍志願兵制度、1943年に海軍志願兵制度および学徒志願兵制度、1944年には徴兵制を実施し、日本の敗戦までに約21万人の朝鮮人が戦争に動員された。また、日本国内における労働力不足を補うため、1939年からは「朝鮮人労働者募集要項」による「募集」方式、1942年からは、「鮮人内地移入斡旋要綱」による「官斡旋(あっせん)」方式、1944年以降は「国民徴用令」を朝鮮人にも適用した「徴用」方式が実施された。朝鮮人は、日本各地やサハリンの炭坑、鉱山、工事現場、軍需産業工場等で、厳しい労働条件の下で労働させられた。これまでの研究によると、70万~80万人の朝鮮人が強制連行されたといわれている。また、当時朝鮮人女性が日本軍「慰安婦」として意に反して連行され、沖縄、中国、東南アジア等の前線に送り込まれ、日本軍の性奴隷にされ、身体的・精神的に多大な被害を受けた。その数は一説に、8万~10万人共いわれる。

 

【朝鮮戦争】

米ソの冷戦体制を背景にしながら、韓国と北朝鮮はそれぞれの政権の正統性を争い、38度線を挟んで対立を繰り返していた。1950年6月25日、北の朝鮮人民軍が~38度線を越えて侵攻し、朝鮮戦争が勃発した。これに対し、ソ連不在の国連安全保障理事会にて「国連軍」の派遣が決定され、9月15日、アメリカ軍が「仁川上陸作戦」を決行し、朝鮮人民軍を中朝国境付近まで追い詰めた。さらに10月には中国人民支援軍が参戦し、戦線は再び南下したが、38度線付近で膠着状態となった。1951年7月から休戦会談が始まったが協議は難航し、1953年7月27日に板門店で休戦協定が結ばれた。死者は民間人を含め約200万人を数え、また、多くの離散家族が生まれ、現在でも南北に離れて暮らす家族は1500万人いるといわれている。この朝鮮戦争で南北の分断は確定的になり、その後も休戦状態のまま現在に至る。一方、日本は米国の後方支援として戦争に加担し、物資や基地の提供を行ったことで「朝鮮特需」が生まれ、経済回復を達成する土台ができた。

 

【朝鮮総督府 】

1910年の「韓国併合」で朝鮮半島が日本の植民地となるが、その統治のために置かれた日本の天皇直属の政府機関。朝鮮総督府には政務総監、総督官房と5部(総務、内務、度支、農商工、司法)が設置され、中枢院、警務総監部、裁判所、鉄道局(朝鮮総督府鉄道)、専売局、地方行政区画である道、府、郡などの朝鮮の統治機構全体を包含していた。1905年の第二次日韓協約の際、置かれた「韓国統監府」(初代統監は伊藤博文)が前身。1945年の日本の敗戦まで続く。

 

【土地調査事業】

1910年から1918年まで実施された、大規模な土地の収奪事業。当時の朝鮮では厳密に土地の所有権は確定していなかったが、近代的な土地所有権の基礎を作るという名目で、土地の所在地、所有者、価格、地図、地形、坪数などを調査・確定した。しかし、実質的には日本がより多くの土地を管理し、各種納税で利潤を得るための政策であった。この調査では自分の土地の所在地などを申告することになっていたが、手続きが複雑であったこと、申告が日本語であったことなどで届け出ない農民が多かった。これによって、申告期限切れや形式の不備などで土地を奪われる農民が続出した。多くの自作農は土地を奪われ、小作農に転落し、農民の貧困層が飛躍的に増加した。この政策により地税収入は2倍に増え、1920年には朝鮮総督府が所有する土地は11万余ヘクタールにも及んだ。当時の朝鮮では、約80%が農民であったため、それ以前の生活様式を破壊され、仕事がなくなった人々は日本や中国東北地方(「満洲」)、シベリアへ移住せざるを得なくなった。土地調査事業が行なわれた1910年代には、在日朝鮮人人口は増大し、1911年に2,527名であったものが(内務省統計)、1920年には約3万名となり、この事業が朝鮮民衆に与えた影響は大きかったことがわかる。

 

■ナ行
【入市被爆者】

原爆投下後に広島市内の被爆地に入り、残留放射線などで被曝(ひばく)した人。被爆者援護法では、投下後2週間以内に爆心から約2キロ以内の区域に立ち入った人を入市被爆者として被爆者健康手帳の交付対象としている。

 

■ハ行
【配給制】

太平洋戦争が開戦する直前の1941(昭和16)年4月に米の配給制が始まり、消費量が制限された。やがて戦争の長期化や不作で米不足となり、イモや大豆などが代用食として配給されるようになった。配給制度は戦後も続き、配給以外のやりとりは「闇取引」として取り締まられた。

 

【貼り工/貼り子】

「ツッカケ」、「ヘップサンダル」(オードリー・ヘップバーンが映画で着用していたため)とも呼ばれる、ヒールの高いサンダルを作る仕事に従事していた人々。主に、大阪市生野区と神戸市長田区で製造されて来た。裁断、ミシンかけ、に続く製造過程を担う貼子は、瞬間接着剤の強烈なシンナー臭と、下敷きの底を強く引っ張るための腕の力が必要で、誰でもできる仕事ではなかった。給料は出来高制であり、在日コリアン女性の高収入の仕事であったものの、戦後の貧しい家庭環境を生き抜くために費やされた。高度経済成長期を迎えてからは、ニューカマー女性たちによって担われることが増えた。

 

【飯場】

鉱山やダム建設、土木工事などで働く住み込みの労働者が、食事をしたり眠ったりする簡易宿泊所。特に戦時中は、不衛生であることに加え、厳しい管理制度の中で強制的な労働を強いられることもあった。植民地支配下において、朝鮮人労働者が劣悪な環境で働かされ、民族差別の待遇を受けることも多々あった。

【被扶養家族渡航紹介状】

日本政府は1938年5月に国家総動員法を公布し、1939年7月、「朝鮮人労務者内地移行に関する件」を発令し、朝鮮人労働者を炭坑、鉱山などの企業が募集する許可を与えた。応募者の被扶養家族の内地渡航手段に関しては、応募者の訓練期間(渡航後3カ月)経過後、被扶養家族渡航紹介状を発給して渡航させることがこの法に定められていた。被扶養家族渡航紹介状には、本籍、住所、扶養義務者との続柄、氏名、年齢、扶養義務者の住所、職業、氏名、行先地、本人写真が記載され、道警察署長の許可が記されている。

 

 

【ヘイトスピーチ】

人種・民族・国籍あるいは性別・障害など、特定の属性を持った集団を誹謗中傷し、攻撃する行為。「憎悪表現」と訳されるが、単に憎悪による表現行為一般ではなく、社会的マイノリティへの差別行為や、街宣活動やインターネットを通じ差別を扇動する行為を指す。日本では2013年頃から在日コリアンに対するヘイトスピーチが急増し、2016年5月、「ヘイトスピーチ解消法」(本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律)が成立し、国にヘイトスピーチをなくすための施策を行う責務が有ること、地方自治体もそれに準じた努力義務があることが明記された。だが、ヘイトスピーチへの罰則規定は無く、また庇護される対象を「適法に居住する本邦外出身者」と規定することで、様々な背景を持って渡日した外国人やその他の社会的マイノリティに対する差別行為については含まれていないという課題が残っている。

 

【ポーツマス条約】

1905年9月5日、アメリカ・ポーツマスで結ばれた日露戦争の講和条約。これにより、日本の大韓帝国(1897~1910年の間、朝鮮が使っていた国名)における利権が承認され、ロシアは「南満洲」と樺太(サハリン)南部の利権を日本に譲渡することになった。条約の第一条は「ロシアは日本の大韓帝国における優越権を承認する」。

 

【奉安殿】

戦前の日本において、天皇と皇后の写真(御真影)と教育勅語を納めていた建物のこと。四大節祝賀式典(四大節とは1927年に制定された四方拝(1月1日)、紀元節(2月11日)、元長節(4月29日)、明治節(11月3日)の総称のこと)の際には、職員生徒全員で御真影に対しての最敬礼を奉ることと教育勅語の奉読が求められた。

 

【ポッタリチャンサ】

ポッタリ(風呂敷)とチャンサ(商売)が合わさった造語で、日本と朝鮮半島を行き来する「行商」を意味する。戦前からはじまっていたが、戦後に最も活発であった。生活必需品や製造業の原料なども扱う。対馬、釜山、麗水というのが主要ルートであったが、現在は主に関釜(下関-釜山)フェリーを利用し、日本のものを韓国で、韓国のものを日本で売るために営まれている。職種の性質上、どうしても国家間の関係や商品の需要によって、合法と非合法の間を行き来することになる。

 

■マ行
【マダン劇】

1970年代、韓国の民主化運動の中で生み出された演劇。当時、軍事政権に対する異議申し立てが徹底的に抑圧されており、唯一許されていたのが宗教や芸術分野であった。反政府運動を担っていた知識人や学生は、厄除招福のための巫俗(ふぞく)儀礼や、仮面劇の形態を用いて、社会の閉塞状態を打開しようとした。80年代に入ってから日本でも行われるようになり、社会問題提起の芸術的アプローチとして、在日コリアン二世世代を中心に多く取り入れられるようになった。

 

【満洲事変】

1929年に始まった世界恐慌によって、日本経済が影響を受け不景気に陥ると、日本の軍部に「満洲」を植民地化しようとする動きが強まった。1931年、日本の関東軍が中国・奉天(今の瀋陽市、柳条湖付近)で起こした鉄道爆破事件(「柳条湖事件」)を中国軍によるものと決めつけ、本格的な武力衝突が始まった。これ以降、大日本帝国は、実質的な侵略戦争を開始していくことになった。

 

【民闘連(「民族差別と闘う連絡協議会」)】

朴鐘碩(パク・ジョンソク)さんの日立就職差別の裁判闘争に関わった人々によって1974年に結成。①在日コリアンの生活実態を踏まえて民族差別と闘う②民族差別と闘う各地の実践を強化するために交流の場を保障する③在日コリアンと日本人が共闘してく、という三原則がある。年に一度、自主的な地域活動の実践を持ち寄る全国交流集会を開催した。主な活動地域は、東京、神奈川、愛知、大阪、兵庫、岡山、広島、福岡などであった。在日のメンバーは2世が中心であった。1970年代には公営住宅、児童手当などを要求する運動を展開する。80年代の指紋押捺撤廃、戦後補償を求める運動にも積極的な役割を果たした。その後も定住外国人の地方参政権、公務員の国籍条項撤廃などを要求する運動では先導的な役割を果たす。

 

■ヤ行
【闇市】

第二次世界大戦の前後、政府によって決められた配給制度や取引価格の枠外で売買が行われた市場。食料、衣類、酒、薬など生活必需品が多く扱われ、軍からの横流し品や台湾・香港からの密輸品なども含まれていた。店のかたちは、露店やバラックが多く、主に日本人引揚者や戦災被災者、在日コリアンや華僑などが商売をしていた。1949年頃から政府の経済統制が解除され、闇市は消滅していくが、その後も商店街や一般の市場として現存しているケースも多い。

 

【闇米】

戦中の1942年から戦後の1955年まで、米の流通は国の直接管理のもとにあり(食糧管理法)、許可を受けた業者にのみ販売が許されてきた。しかし実際には、特に戦後は、配給米だけでは食料は不足し、正規なもの以外に流通する闇米があり,不正規流通米や自由米とも言った。在日コリアンはこうした闇米を作ることで飢えを凌いだり、生活の糧としていた者も多かった。

オモニハッキョ
外国人登録法/外国人登録証明書
光州事件(光州闘争)
帰化
京都朝鮮学校襲撃事件
(人権保障としての)「居住の権利」
金嬉老(キム・ヒロ)事件
クズヤ/バタヤ/寄せ屋
百済
軍人勅諭
建国(白頭学院)
皇国臣民ノ誓詞(こうこくしんみんのみことのり)
高齢者無年金問題・障害者無年金問題
在特会
在日韓国青年同盟(韓青)
在日大韓基督教会
在日本大韓民国民団(民団)
在日本朝鮮人総連合会(総連)
再入国許可
三・一独立運動
産米増殖計画
GHQ/SCAP
出入国管理及び難民認定法(入管法)
創氏改名
第二次日韓協約
頼母子講(たのもしこう)
祭祀(チェサ)
済州島四・三事件
(朝鮮人)強制連行
朝鮮戦争
朝鮮総督府
土地調査事業
入市被爆者
配給制
貼り工/貼り子
飯場
ヘイトスピーチ
ポーツマス条約
奉安殿
ポッタリチャンサ
マダン劇
満洲事変
民闘連(「民族差別と闘う連絡協議会」)
闇市
闇米
被扶養家族渡航紹介状
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