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外国人登録法(外登法)

 

概要

 外国人登録法(外登法)は日本に在留する外国人の管理を目的とした法律である。法律第125号として1952年の4月28日に施行された。入管法(出入国管理及び難民認定法)と並んで、日本の外国人管理の2大基本法であったが、2009年7月の法改正によって廃止が決定、2012年7月9日に廃止された。

​ 前身である外国人登録「令」が1947年にポツダム勅令として施行。その実質的目的は、旧植民地出身者である朝鮮人と台湾人の管理であった。登録証明書の常時携帯および提示義務と罰則などが定められた。1952年のサンフランシスコ平和条約の発効によって外国人登録「法」となる。出生・上陸などに必要とされる登録事項、市町村長による登録原票の管理、居住地などの変更登録などが定められ、登録の際に指紋押捺義務が課せられた。92年改正で永住者と特別永住者への指紋押捺義務が廃止、99年改正で非永住者の指紋押捺義務も全廃された。一方で、登録証明書の常時携帯および提示義務は残り、違反者には刑事罰(懲役1年以下または20万円以下の罰金など)が課された。国連規約人権委員会から3回に渡って廃止すべきと意見が出された。2012年改定で外国人登録法が廃止され、「在留カード」と「特別永住者証明書」交付による、法務省の一元的在留管理体制となり、特別永住者のみ携帯義務が免除された(提示義務は残る)。

 

外登法・入管法

 外登法と入管法はもともと、1947年5月2日に施行された外国人登録令(外登令)という一つの法令であった。朝鮮戦争中の1951年に出入国管理令が制定され、外登令から出入国管理部門が分離された。以来、戦後日本の外国人管理は主に、外登法・入管法の2つの法律によって行われた。2009年7月の法改正によって、外登法は廃止され、同法は改正入管法に一本化されることとなった。2009年改正入管法は2012年7月9日に施行された。

 

外国人登録の概要

 *この項の記述はすべて、2009年に外登法廃止が決定される前の事柄です。

<対象と例外>
 日本国籍を持っていない者の中で、出入国管理及び難民認定法の規定による仮上陸の許可、寄港地上陸の許可、通過上陸の許可、乗員上陸の許可、緊急上陸の許可及び遭難による上陸の許可を受けた者以外は全て登録を義務付けられているとされる。
 ただし日米地位協定には米軍関係者について、外登法・入管法を含む日本の外国人管理の法律の適用対象外とする規定がある [*]。そのため国勢調査や外国人登録の統計に米軍関係者は含まれない [*2]。

 
 「 合衆国軍隊の構成員は、旅券及び査証に関する日本国の法令の適用から除外される。合衆国軍隊の構成員及び軍属並びにそれらの家族は、外国人の登録及び管理に関する日本国の法令の適用から除外される。ただし、日本国の領域における永久的な居所又は住所を要求する権利を取得するものとみなされない。」(日米地位協定第9条第2項。外務省サイトより)

*2

 例えば約75%の在日米軍基地が集中する沖縄県の外国人登録統計には在日米軍関係者の人数は含まれないし、各自治体も米軍関係者の正確な人数について正確に把握していない。2008年になって不祥事再発防止対策の一環として米軍基地のある各自治体に米軍関係者の人数が通知され、在沖米軍の関係者(軍人・軍属・家族)が44963人と在日米軍の約半数を占めることが明らかになった(沖縄県企画部統計課 管理資料班 「統計トピックス 外国人人口統計について」(2008年3月))。同資料には次のような記述がある。

 「国勢調査の中には、 米国軍隊の軍人・軍属及びその家族は含まれません。また、日米地位協定第9条第2項の規定により、外国人登録制度の適用からも除外されているため、各市町村に具備されている外国人登録原票に記載されることもありません。その人数は、日米地位協定第9条に関する合意議事録に記載されているように「日本国政府は、両政府間で合意される手続に従つて、入国者及び出国者の数及び種別につき定期的に通報を受ける。」ことによってのみ把握できることとなっております。」

 
<申請>
居住地域の市区町村役場で手続きを行なう。申請期間は、日本に90日以上滞在する者または出生などの場合は60日以内となっており、申請後に市町村の長から外国人登録証明書が交付される。

<登録事項>
居住地域の市区町村役場で登録手続きを行う際、外国人登録申請書、旅券、顔写真(16歳未満の者は不要)の提出を行わなくてはいけない。外国人登録には、名前・顔写真・署名・生年月日、性別、国籍、出生地、家族関係等20項目の情報が登録される。

<紛失・変更>
外国人登録証明書を紛失、盗難又は減失により失った場合、その事実を知ったときから14日以内に再交付申請しなくてはいけない。また、居住地を変更した場合(同一の市町村の区域内で居住地を変更した場合を除く。)には、新居住地に移転した日から14日以内に、新居住地の市町村の長に対し、変更登録申請書を提出して、居住地変更の登録を申請しなければならない。その他の登録内容の変更に関しても、必要に応じて登録申請をしなくてはいけない。永住や特別永住の在留資格を持つ者も同様である。

<切り替え期間>
切り替え期間は、永住・特別永住の在留資格を持っているものは7年、その他の外国人は5年である。具体的には、最後に登録の確認を受けた後、当該外国人の5回目(登録等を受けた日に当該外国人が永住者又は特別永住者であるときは、7回目)の誕生日から30日以内に、その居住地の市町村の長に対し、登録原票の記載が事実に合っているかどうかの確認をしなければならない。
 
<常時携帯義務と罰則規定>
在日外国人には、登録証の携帯・提示の義務が課せられている。違反した者には1年以下の懲役又は禁固、または20万円以下の罰金という罰則規定がある。登録記載事項の変更の際の手続きが遅れた場合も同様の罰則が用いられる。特別永住者に関しても同様の罰則規定が定められているが、登録証の不携帯の場合のみ10万円以下の罰金が科せられる。
現在(外登法廃止前のことです)は廃止されている指紋の押捺義務についても同様のことが言うことができる。そして、指紋押捺制度が廃止された後は、新たな本人確認手段として、本人の署名と名前や生年月日などを登録することが義務付けられ、不署名罪という新たな刑事罰が新設された。

<住民登録と、管理としての外国人登録>
外国人登録法は「外国人の公正な管理」を目的としており、「住民の利便を増進する」ことを目的とした住民基本台帳法に基づいた日本国籍者の住民登録とは趣旨が異なる。
運用においても外国人登録と住民基本台帳法には大きな違いが見られる。後者が民事法規であるのに対して、前者は刑事法規として取締りの対象となっている事例が数多くある。例えば、登録証の携帯・提示義務や罰則規定は日本国民には課せられていない。
 
外国人登録法の成立背景と改定の歴史

○1947年外登令
 日本国憲法が発効した1947年5月3日の前日にあたる5月2日に、昭和天皇最後の勅令として外国人登録令(外登令)が公布・施行された。
 外登令公布はなぜ新憲法発効の前日であったのかについて有力な見解は次の通りである。外登令は最初から「対朝鮮人治安立法」として考えられた。しかし新憲法発効後では国会での議論を経なければ立法が出来ず、当時の情勢から外登令成立が危ぶまれた。日本政府とGHQが法成立を急いだために、勅令という形態ととった(大沼保昭「出入国管理法制の制定過程」『単一民族社会の神話を超えて』54-55頁)[*]。

 
 すなわち、同令は「警察国家」日本の中核たる内務省において、基本的に対朝鮮人治安立法として案出されたものであり、旧憲法的感覚が濃厚に残存する雰囲気の中で立案、制定されたものである。
 (外国人登録令 大沼解説より)

 当時は在日朝鮮人をはじめとする旧植民地出身者は日本政府から法的に日本国籍であるとされていた。にもかかわらず外登令第11条によって「外国人とみな」され外登令の適用対象とされた。あくまで「この勅令の適用については」という但し書きつきであり、日本政府は在日朝鮮人に対して、日本国籍でありながら同時に外登令については外国人として取り扱うという対応であった。

 「台湾人のうち内務大臣の定めるもの及び朝鮮人は、この勅令の適用については、当分の間、これを外国人とみなす」
(外国人登録令第11条)

○1949年外登令
○1952年外登法
 1952年4月28日のサンフランシスコ講和条約の発効により日本はGHQの占領から独立を果たした。同日にポツダム政令であった外国人登録令は廃止されたが、これを引き継ぐ形で同日に外国人登録法が施行された(法律第一二五号)。
 当時の主な変更点には次のようなものがある。

①申請、切り替え、再交付などの義務違反に対する罰則を新設、それについて懲役または禁固と罰金との併科規定を設け、また申請などの代理手続き違反に対しては過料を科すことにした。
②指紋押捺制度を新たに採用した。
③登録証明書の切り替えは2年ごとにした。

 以後、同法は数回にわたって改定されている。第2回から第4回までの改定は指紋押捺制度の導入を図った。同法施行当初から指紋押捺制度を採用する内容は含まれていたが、内外からの反対が強く、実施期間に関し、最終的には第4回改定の1955年4月28日に施行された。

▼主な外国人登録法の内容改定の変遷

 

(以下)改定年(改訂回次)

  主な改定内容

 

1949(1)

・登録証の番号を、全国一連に統一
・居住地変更時は新規登録でなく変更登録
・3年ごとの切り替え制度導入
・登録証の常時携帯義務新設
・不携帯罪新設など重罰

1952-1955(2-4)

指紋押捺制度の導入 2回目改定当初から指紋押捺制度を採用する内容は含まれていたが、内外からの反対が強く、実施期間に関し、最終的には第4回目改定時に施行

1956(6)

・申請等のための本人出頭明示
・従来の2年ごとの切り替えが3年ごとに変更

1980(9)

・申請登録期間を30日から60日に延長
・出国する際に外国人登録証明書を役所窓口に提出し、再入国の際同役所窓口へ出向いて受け取る制度の廃止 粘り強い反対運動の成果もあり、取締りが緩和

1982(11)

・切り替え交付期間を3年から5年に延長
・登録証の受領、携帯、提示、指紋押捺義務を14歳未満であったことを16歳未満は不必要とした
・罰則規約の強化(3万円以下の罰金を20万円以下の罰金に引き上げ) 日本が「国際人権規約」と「難民条約」に調印、批准したことにより「出入国管理及び難民認定法」が成立。
特例永住を導入したことと関連し法律を改正

1988(12)

指紋押捺の義務が16歳時の登録切り替えのときの1回限りになる 80年代大きく盛り上がった指紋押捺拒否闘争が大きな要因となって指紋押捺制度が緩和されていった。

1993(13)

特別永住者に限り指紋押捺義務が無くなる

2000(14)

・すべての外国人に対し、指紋押捺義務がなくなる
・切り替え交付期間を5年から7年に延長

 

 
外国人登録法の運用実態

 以下の通り、外登法は警察当局によって治安目的のために不当に濫用されてきた事実がある[*]。

 

李静江(イ・チョンガン)氏 当時24歳・教師

1963年5月 授業中、制服姿の龍ヶ崎署警察官が教室に入り込んできて、登録証の提示を求められた。たまたま土浦市の自宅に置き忘れた李氏が「今は授業中だし明日必ず持ってくるから」といったにも関わらず、生徒たちの面前から警察署に連行し、不当な取調べを受けた。

金美代子(キム・ミデジャ)氏

1981年5月14日 山梨県塩山町を知人のA氏の運転する車に同乗して通行中、塩山警察署員に登録証明書の不携帯のかどで2日間も警察に呼び出され、きびしい取調べをうけた。
 金氏は、「なぜこんなことまでするのですか。私が人を殺したとでもいうのですか。これまではまるで重罪人扱いではないですか」と泣いて講義したが、むりやり十指の指紋と掌紋、顔写真を撮られ、身長、体重の測定と足型までとられるなどの人権侵害を受けた。

申哲煥(シン・チョルファン)君(当時19歳)

1983年3月23日 埼玉県川口市東本郷付近の路上でバイクを運転中、武南警察署員に外国人登録証明書不携帯を理由に逮捕され、手錠と腰縄をかけられたばかりでなく、2時間にわたって拘束されたあげく、十指の指紋や掌紋、顔写真まで撮られるという不当な取扱を受けた。

李稔浩(イ・イモ)氏(当時28歳)

1983年10月10日 北海道夕張市内で栗山警察署員の検問にかかった。だが、たまたま外国人登録証を自宅に置き忘れていたことが口実となって、登録証不携帯罪で連行され、始末書を書かされたうえ、翌日も再度警察へ呼び出され、3時間にわたって取調べを受けた。
 しかし、その内容は、「朝鮮人学校はいつ行ったか」「財産はどれくらいあるか」「朝鮮語は話せるのか」など、登録法違反とは何の関係もない事柄ばかりであった。身柄も拘束しない任意の取調べであるにもかかわらず、李氏は顔写真をとられ、十指の指数と左右の掌紋、足形、はては血液型まで検査されようとしたのである。

朴信泳(パク・シニョン)氏(当時31歳)

1987年4月 自宅近くを自転車で帰宅途中、小平警察署警察官に無灯火を理由に呼び止められ登録証の提示を求められた。たまたま会社に置き忘れたため「明日交番に持参する」と答えたが、2人の警察官に腕をねじ上げる等の暴行を加えられたうえ逮捕され、小平警察署に連行された。署内で差別的言辞を浴びせられながら強制的に指紋をとられるなど不当な扱いを受けた。

*小野幸治・武村二三夫(1987)『外登証常時携帯制度と人権侵害』日本評論社、158~168頁。

 

指紋押捺拒否運動

▽50年代
 外国人登録法による在日朝鮮人をはじめとする外国人の管理体制の問題点の一つに指紋押捺の制度が挙げられる。外国人登録法は新規登録・切り替えといった手続き時に本人の指紋採取を義務づけ、罰則規定を設けていた。
 指紋押捺が義務化された1952年当時は在日朝鮮人の強い反対もあって実施が3年も延期された。大部分の朝鮮人・中国人が初めて指紋を採られたのは外国人登録の最初の大量切り替えが行なわれた1956年であった。実施後1957年をピークに指紋拒否は続いた。外国人であることを理由に指紋押捺を強制されることが、「犯罪者と同じ扱い」であり不当な人権侵害であるというのが主要な反対の理由であった。 

▽政府見解
 指紋押捺について政府は以下のように正当化してきた。

「指紋の万人不同、一生不変という特質を利用して登録する外国人の同一性を科学的に担保するもので、指紋を押させることにより、偽造・変造を防止し、所持人自らも登録証明書の正当所持人であることを証明できる。」(「出入国管理の回顧と展望」法務省入管局編 1980年度)

 

▽80年代の指紋押捺拒否運動
 1980年代に入り大規模な指紋押捺拒否運動が始まった。1980年9月10日、在日韓国人一世の韓宗碩(ハン・ジョンソク)氏[*] は、重い刑罰や日本への再入国不許可というリスクを背負いながらも指紋押捺拒否を行い、その後の裁判で有罪判決を受けてもなお不押捺を続けた。

*韓宗碩氏の言葉。

「いままで何度となく、指紋を押してきました。しかし、考えてみると、私の子も孫も同じように押し続けることになります。私は、子孫にこれといって残してやれない代わりに、指紋を取られなくて済むようにぐらいは、してやれないかと思ったんです。指紋が残っていることは、それと矛盾するように思えてなりません。
 でも怖かったです。〔外国人登録証の〕切替えの時、指紋を押さなければ、登録証はくれないだろう。だとすると、登録証の提示を求められた際、「不携帯」で逮捕され、下手をすると大村〔入国者収容所〕送りになって、韓国に強制送還されるかもしれない、と思うと。でも、指紋を押さなくても、ちゃんと登録証をくれたので、いささか拍子抜けした感じでした。」 (田中宏『新版 在日外国人――法の壁、心の溝』岩波新書、78~79頁。)

.

 1982年10月、政府は最初の登録年齢を14歳から16歳に引き上げ、3年後との切り替えを5年ごとの切り替えに延長する外国人登録法の一部改正に踏み切った。一見すると前進に見えるこの措置によって、指紋押捺によって異を唱えていた当事者は、外国人登録証の切替時にやってくる指紋押捺拒否の時期を2年延ばされることになった。政府はこの延長された2年間の間に、外国人登録のコンピュータ化を実施すると同時に指紋押捺拒否者に再入国許可を与えず、帰国を保証しないことで、本国を含む一切の海外旅行を許さないという措置に出た。
 法務省公表によると、1982年から88年の間に指紋拒否を理由とする再入国不許可は107件である(『「自分の国」を問い続けて』)。
 以下、実例を挙げる。このような事件をきっかけに在日コリアンにとどまらず、米国人や中国人の中にも拒否者が大勢出るようになり、1980年代に2名しかいなかった拒否者の数は、わずか5年近くの間に100名近くになった。

▽崔善愛氏事件
 崔善愛氏は1981年、21歳の時に北九州市小倉北区役所にて指紋押捺を拒否した。そのことで翌83年5月14日に同市に告発、小倉検察庁によって取り調べを受けたのち、同年11月16日福岡地裁で起訴されている。
ピアニスト志望で会った彼女は米国留学を希望し、再入国許可を申請したものの指紋押捺拒否を理由として不許可になった。協定永住資格を有する在日コリアンであった崔氏は、再入国許可なしで国外へ留学すると永住資格を失う。悩んだ末彼女は再入国許可が出ないまま1986年8月、海外留学のため出国した。
その後日本に再入国するため上陸申請を行ったが、再入国許可がないことを理由に日本政府から協定永住資格を喪失したという扱いを受け、特別上陸許可を受け上陸し、在留資格がないまま在留特別許可による日本での生活を余儀なくされた。
 彼女は日本政府に対し訴訟を提起し、再入国不許可処分の取り消し、協定永住資格の確認、および損害賠償を求めた。
(崔善愛『「自分の国」を問いつづけて』岩波ブックレット)

▽キャサリン森川氏事件
 1984年6月には、指紋押捺を拒否し逮捕されたキャサリン森川氏が法廷闘争に持ち込み、指紋押捺の是非を問うた最初の裁判として注目された。この裁判で弁護側は、指紋は重要な個人情報であるので、強制的な指紋採取は個人の私生活における自由の尊重に違反すること、犯罪者の容疑者と同じ「回転押捺方式」は個人の品位を傷つけていること、そもそも外国人にのみ押捺を強制するのは法の下の平等に反すること、の3点を主張した。裁判の結果は「罰金1万円」の有罪判決であった。裁判所は指紋の権利性を認め、指紋押捺の強制が人権侵害としながらも、外国人の公正な管理と目的達成のためにその合理性を認めたのである。それ以後、外国人登録法のさまざまな矛盾点・問題点が浮き彫りになり、さらに多くの指紋押捺拒否者が現れ、また一方では押捺拒否を反対する人も含めた日本人の中からも制度の改正を求める声が上がるようになり、世論全体が指紋押捺の廃止へと傾くようになった。こういった運動が、外国人登録法改正による全ての外国人に対する指紋押捺制度廃止への大きな原動力となった。

 

指紋押捺廃止まで

 1986年9月20日、訪韓した中曽根首相は全斗煥大統領と「指紋一回」案で一致を見た。そして1987年の外国人登録法の改正によって、規定により1度指紋の押捺をした者は、指紋押捺は不必要となった。しかし、改正法が容易に再押捺を命ずることができるようになっており、また登録証明書がラミネート化され、一層鮮明な指紋が刻まれた登録証明書の携帯を義務付けることになった。そのため拒否者の多くが「この改正では問題の解決にならない」と反発し、政府は行き詰った結果、昭和天皇の死去を受け、臨時閣議で指紋押捺拒否者に大赦令を適用し制裁を放棄した。しかしこの「大赦」に不満な拒否者たちは国家賠償請求を裁判所に提訴した。
 指紋押捺制度の廃止を要求する世論の高まりの中で1991年、当時の首相であった海部俊樹が韓国を訪問した際に調印された日韓法的地位協定に基づく協議の結果に関する覚書で永住者および特別永住者に関して2年以内の指紋押捺廃止が約束された。1992年6月、外国人登録法が改正され、永住者および特別永住者については、指紋押捺制度が廃止され、指紋押捺は不必要になった。しかしその代替手段として、署名と家族登録制が導入され、16歳以上の永住者および特別永住者は、新規登録等の申請の際に登録原票と署名原紙に署名することおよび家族事項の登録が義務付けられた。そして、「署名拒否罪」を新設し、違反者には「一年以下の懲役もしくは禁錮又は20万円以下の罰金」という重い刑罰を科した。
 続いて1998年の10月、韓国の金大中大統領の訪日に合わせ、国会で指紋押捺制度廃止が提起され、2000年4月1日、外国人登録法に基づく指紋制度は全廃され、全ての外国人から指紋押捺が廃止された。

 

 

参考文献
・『在日韓国・朝鮮人 歴史と展望』姜在彦 金東勲著 1989年 労働経済社
・『[在日」という生き方:差異と平等のジレンマ』 朴一著 1999年 講談社 
・『在日朝鮮人の人権と日本の法律』 姜徹著 1994年 雄山閣
・『外国人の法的地位と人権擁護』 近藤敦編著 2002年 明石書店
・『指紋制度撤廃への論理:外国人登録法「改正」案の総批判』 今村嗣夫(ほか)著
1987年 新幹社
・『外登証常時携帯制度と人権侵害』 小野幸治/武村二三夫編 1987年 日本評論社
・『在日朝鮮人 第2版-歴史・現状・展望』朴鐘鳴著 1999年 明石書店
 など

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