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朝鮮人渡航管理政策

 韓国併合条約を根拠として、朝鮮は日本の領土とされ、朝鮮人は日本国籍保持者とされた。にもかかわらず朝鮮人の日朝間の移動は、1905年以降原則的に日朝間を自由往来できたとされている日本人とは違い、朝鮮総督府や内務省(警察)によって管理されていた。
 この点に関連して樋口雄一は「在日朝鮮人の形成過程を論ずる場合、あまりにも朝鮮人が自由に、あるいは勝手に日本に渡航してきたかのように表現している文書が多いが、基本的には日本政府の認めた範囲で、その必要に応じて朝鮮人の渡航が認められていた点を確認しておくべき」としている。
 なお、同じ日本国籍保持者ではあるが朝鮮人を対象として行われた朝鮮人渡航管理は、朝鮮人渡航管理政策の重要な一環をなした。

 

戦前日本の外国人労働者渡航規制と朝鮮人

 近代以後の日本の外国人労働者渡航規制は主に中国人労働者を対象としていた。渡日する朝鮮人についてはその規制対象にはなっていなかったとされている。

 

韓国併合以後から3.1独立運動まで

 韓国併合以後は朝鮮総督府によって渡日する朝鮮人労働者の渡航管理が実施されるが、それが整備されるのは在日朝鮮人人口が1万を突破した1917年からであり、1918年1月に朝鮮総督府令第6号「労働者募集取締規則」が出されている。これは労働者を募集する企業側の規制であった。

 

3.1独立運動を機につくられた渡航証明制度

 1919年3月1日には3.1独立運動が起きたが、この運動の広がりを恐れた総督府が4月19日に警務総監部令第3号「朝鮮人の旅行取締に関する件」を出した。 
 「朝鮮人の旅行取締に関する件」のポイントは、①朝鮮外に出る際には、居住地所轄警察署・警察官駐在所に目的・旅行地を届け出た渡航証明を出すこと、②朝鮮内に帰る際にも同諸名所を警察官に提示すること、が必要となった点であった。 
 この渡航証明制度は形式的に一時廃止されるものの植民地からの朝鮮解放まで継続され、在日朝鮮人管理の柱とされた。 
 1929年当時の東京府の報告書にも「法規上施行する朝鮮人内地渡航は自由になったが事実において渡航証明制度は継続され、現今なお渡航に要する手続きは相当厳重に行われ、殆ど渡航が不可能な状態まで立至って」いたとある(東京府『在京朝鮮人労働者の現状』より)。 
 以下、渡航管理制度の年表(樋口雄一『日本の朝鮮・韓国人』同成社)。 
1919年4月19日    警務総監部令第3号「朝鮮人の旅行取締に関する件」 
1922年12月    同令廃止(総督府令153号) 
1923年9月    同令復活(関東大震災発生のため) 
1924年6月    同令廃止 
1927年7月    総督府各道知事に渡航阻止と渡航者に戸籍謄本裏書証明書発給に関する件を通牒 
1929年8月    渡航朝鮮人労働者の証明に関する件通牒、在日朝鮮人の一時帰鮮証明制度実施 
1932年10月    渡航朝鮮人すべてに警察の発給する証明が必要となる 
1934年8月    渡航朝鮮人学生身分証明書に写真を貼ることが義務づけられる 
1936年5月    朝鮮人官吏、新聞記者に一年間有効の身分証明書発給


 「渡航証明制度は、朝鮮人が日本人とされながらも、朝鮮人のすべてが対象となり、労働目的の人々に限らず学生や知識人などすべての人々が何らかの証明書を要求されたのである。」(樋口雄一『日本の朝鮮・韓国人』同成社)

 

渡航阻止政策

 渡日者の急増に対して、日本の当局は渡航阻止政策をとった。
 具体的には内務省の要望を受けた総督府が1925年10月から、就職口が確実でない者について渡航阻止することになった。釜山の警察署と31年からは麗水でも行われた。最初は労働者に対して行われたが後に学生などすべての朝鮮人に対して行われた。
 とくに1934年に閣議決定された「朝鮮人内地移住対策の件」以後はより強化されている。  1936年以降は毎年10万人以上が渡航を阻止されているとする統計がある(坪江『在日本朝鮮人概況』)。また同統計によると強制連行が開始された1939年以後には年20万を超える人々が渡航阻止されている。

 

「密航」と強制送還

 朝鮮人の日朝間の移動が渡航証明制度によって厳しく制限されていたがゆえに、「密航」や「不正渡航」とされた朝鮮人の渡日行為も多い。その数は1925年の渡航制限以後、4万人以上に上るという統計がある(内務省『社会運動の状況』各年度版)。
 また1939年版『社会運動の状況』によると、「密航」とされた朝鮮人7400名中、94%の人々が強制送還されている。
 当時、総督府が内務省宛に出した要望の一項は、当時の「密航」とそれに対する強制送還という処遇がどのようなものであったかを伺わせる一例である。
「密航者といえども発見当時、相当の年月を経過し、業務に就業しある者に対しては朝鮮送還を差し控えられたきこと、尚、之が取扱いに就いても一般犯罪人と同一視し苛酷に亘るが如きこと無きよう取りはかられたきこと」(1938年11月付要望から)

 

朝鮮人の日朝間の往来

 植民地期の在日朝鮮人の日朝間の往来は頻繁に行われた。たとえば1939年の場合、一時帰鮮証明書の発給数は8万2586件に達している。
 在日朝鮮人が帰国する要因には、①冠婚葬祭、②失業や健康を崩すなどの生活のため、③「密航」や社会運動の取締による強制送還、などがあった。
 樋口雄一は「朝鮮人の帰国と再渡航は頻繁に行われ、1945年までの在日朝鮮人の朝鮮との結びつきはきわめて強かったといえるのである。それが45年以前の在日朝鮮人社会を規定する重要な要因となっていた」と指摘している(前掲書)。

 

 

参考文献
樋口雄一『日本の朝鮮・韓国人』同成社
鄭栄桓「「解放」後在日朝鮮人運動史研究序説(1945年-1950年)」

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