
外国人登録令(1947年)
概要
外国人登録令(外登令)は1947年5月2日に公布・施行された外国人管理法である。
一般的な外国人管理法という形式をとっているが第11条で、当時日本政府によって日本国民として扱われていた朝鮮人・台湾人を同令適用につき「外国人とみなす」とした。
同令は制定当初から「対朝鮮人治安立法」として立案され、GHQ・日本政府双方の協議を経て、天皇最後の勅令として交付・施行された。
同令は「戦後初の外国人管理法」(大沼、46頁)として重要な意義を持つ。戦後永らく外国人管理の2大法とされた外登法・入管法は外登令がもととなっており、現行の入管法の起点となった法令であるといえる。
天皇最後の勅令としての外登令
日本国憲法が発効した1947年5月3日の前日にあたる5月2日に、昭和天皇最後の勅令として外国人登録令(外登令)が公布・施行された。
外登令公布はなぜ新憲法発効の前日であったのかについて有力な見解は次の通りである。外登令は最初から「対朝鮮人治安立法」として考えられた。 しかし新憲法発効後では国会での議論を経なければ立法が出来ず、当時の情勢から外登令成立が危ぶまれた。日本政府とGHQが法成立を急いだために、勅令という形態となった(大沼保昭「出入国管理法制の制定過程」『単一民族社会の神話を超えて』54-55頁)[*]。
*
すなわち、同令は「警察国家」日本の中核たる内務省において、基本的に対朝鮮人治安立法として案出されたものであり、旧憲法的感覚が濃厚に残存する雰囲気の中で立案、制定されたものである。
(KEYワード資料室より外国人登録令 大沼解説抜粋)
外登令を成立させた事情
○GHQ
外登令制定当時、在日朝鮮人は祖国への帰還や民族教育や生活の保障などを求め精力的に運動していたが、同時に当時の日本共産党の主導する大衆運動にも積極的に参加していた。
このような在日朝鮮人運動に対し、GHQは反共主義の立場から強く警戒していた[*]。
*
大沼保昭氏は76年に行った、当時GHQで外登令など入管法制制定過程にかかわったネイピア、バシンなど各氏からのインタビューを根拠に次のように指摘している。
「当時の日本共産党が、資金面でも人員の面でも在日朝鮮人に強く依存していたことから、GHQも、共産党と朝鮮人との結びつきを警戒し、朝鮮人の活動に強い態度をもってのぞんだのである。」(大沼、39頁)
○日本政府 1946年5月に発足した吉田政権も、同年夏の国会でヤミ市取り締まりについて答弁で言及し「いわゆる解放された在留者」「第三国人」を厳しく取り締まり、「社会秩序」を維持する決意を表している(大沼、40頁)。
外登令成立の根拠とされた4つのGHQ覚書
外登令成立の根拠とされたGHQの覚書は次の4つである。しかしこれら4つのうち、一般的に朝鮮人・台湾人を外国人として取扱い、かつ退去強制の対象とするものは、1つもなかった[*]。そのため外登令制定のためには新しいGHQ覚書が必要とされたが、外登令制定までついに出されることがなかった。
①「非日本国民の入国及び登録に関する覚書」(SCAPIN第852号)
②「引揚に関する覚書」(SCAPIN第927号)
③「日本への不法入国の抑制に関する覚書」(SCAPIN第1015号)
④「不法入国抑制に関する覚書」(SCAPIN第1391号)
①は、占領軍に属さぬ非日本人の入国が許される場合、登録を実施・身分証など交付で国内居住を国内法上合法とするよう命じたもの。
②は本国へ帰還した非日本人の帰還を禁じたもの。
③④は朝鮮からのコレラを防ぐため、不法入港船舶捜索・逮捕を命じたもの。
*
「政府が在日朝鮮人、台湾人を外国人とみなしてこれに一般的登録義務を課し、違反者を退去強制することを認めるGHQの覚書はまったく存在しなかったのであり、そのためには新たな覚書を必要としたのである。」(大沼、49頁)
外登令の内容
<目的>
目的は第1条に規定されている。
①「外国人の入国に関する措置を適切に実施」
②「外国人に対する諸般の取扱の適正を期する」
法文上の目的はごく一般的かつ中立的なものであるものの、実質的な目的は「対朝鮮人治安立法」である(第11条のみなし規定や、附則第2項・3項を参照)。
<対象>
外登令は、第3条で外国人の原則的入国禁止をうたっている。つまり同令は現在の入管法と違って、日常的な外国人の出入国を想定していない。
また第2条で、連合国関係者は対象外とされている[*]。
*これに対応する条項は1952年4月28日以降も外登法・入管法に引き継がれている。米軍関係者を外国人管理法の対象外とする日米地位協定第9条に対応するもの。
このことからして外登令が想定する外国人は、①禁止されているはずの入国をしようとする非連合国外国人か、②外登令前にすでに在留している非連合国外国人のどちらかになる。
別項でみるとおり外登令の「外国人」は在日朝鮮人・台湾人が含まれるが、実際に外登令が想定している外国人のほとんどがそうであった。
<義務・罰則規定・退去強制>
第10条 登録証明書の常時携帯、警察官等への呈示義務
※ただし不携帯それ自体についての罰則規定は規定されていない。49年外登令で新設される。
第12条 6箇月以下の懲役若しくは禁固、1000円以下の罰金又は拘留若しくは科料
第13条1項 退去命令
第14条1項 退去強制
これによって台湾人・朝鮮人は一般的に、潜在的な退去強制の危機にさらされることになった。
第11条「外国人とみなす」・附則第2・3項
○第11条
第11条は台湾人・朝鮮人について、「この勅令の適用については、当分の間、これを外国人とみなす」とした。
第11条 台湾人のうち内務大臣の定めるもの及び朝鮮人は、この勅令の適用については、当分の間、これを外国人とみなす。
第1条にうたわれた目的が一般的な外国人管理法であったのに対し、第11条に外登令の「真の目的」が表現されているという指摘がある[*]。
*
「この第11条は外登令の真の目的をなによりも直截に表現するものである。すなわち、前述したように、政府は旧植民地出身者は講和条約発効までは原則として日本国籍を保持するという立場をとっていた。他方において、朝鮮人を可及的に朝鮮に帰還させること、および秩序維持のため朝鮮人を一定の管理下におくことは政府の一貫した方針であり、外登令はまさにその後者の目的のために制定されたものであった。かくして、「日本国民」たる朝鮮人を外国人管理の下におくための法技術形式として、この「みなし」規定が設けられたのである。」(大沼、48頁)
○附則第2・3項
附則第2項・3項は、外登令施行時点ですでに日本に在留している外国人に対して、外国人登録の申請を義務付け(施行日30日以内。第2項)、かつ罰則規定も他のケースとまったく同様に準用する(第3項)旨が規定されている。
第11条によって新規非合法入国の朝鮮人・台湾人は取り締まれる。しかし外登令施行日時点ですでに日本にいる在日朝鮮人・台湾人に対し、第11条だけでは外国人登録を具体的に義務付ける規定は不足しているので、附則第2・3項が設けられた[*]。
附則
(1)〔略〕
(2) この勅令施行の際現に本邦に在留する外国人は、この勅令施行の日から30日以内に、第4条の規定に準じて登録の申請をしなければならない。
(3) 第12条乃至第15条の規定は、前項の場合について、これを準用する。
*
「そこで第11条で朝鮮人、台湾人を外国人とみなして密入国取締りの対象たることを明確にすると共に、第11条と附則第2項を結合させることにより、在日朝鮮人、台湾人をすべて登録の対象に組み入れ、附則第3項により在日朝鮮人、台湾人の登録義務違反者を退去強制しうる体制を確立したのである。本文諸規定の一般性を維持しつつ、しかも在日朝鮮人取り締まりという真の立法目的を実現するための巧妙な法技術が、この附則第2項、第3項にほかならない。」(大沼、54頁)
台湾人の適用対象問題
外登令第11条で、外登令適用対象とされたのは朝鮮人・台湾人であった。治安的観点から朝鮮人に対しては適用を急いだGHQは、台湾人については異なる態度をとった。
なお朝鮮人についてGHQは、以下の交渉の中で外登令適用対象とすることに反対せず、GHQ朝鮮課を中心に積極的に登録の必要性を主張したとされる(民生局長宛覚書(1947/4/25))。
○在日台湾人の連合国民待遇問題
1946年6月に中華民国政府は在外台僑国籍処理弁法を公布、在日台湾人はすべて中国国民(中華民国国民)であると主張、7月にはGHQにも連合国国民として待遇を保障するよう求めていた。
これに対し米国務省が中華民国側の立場を支持する一方、GHQは法秩序維持から難色を示した。
その後46年9月から翌年1月に、中華民国政府・米国務省・GHQ・中華民国代表部の折衝を経て、中国(中華民国)代表部が発給する登録証保持者を中国国民=連合国民として認める旨の合意が成立した。
これを受けGHQは1947年2月25日に「中国国民の登録に関する覚書」を出している。(以上、大沼、43頁)
在日朝鮮人と在日台湾人は旧宗主国在住の旧植民地出身者として、同じく旅券も入国もなく日本に在住するという点で同じであったが、台湾人の場合は在日代表部が発給する文書を根拠として連合国民として扱われたのだった。
○台湾人の外登令適用問題
上の事情があったためGHQは外登令の台湾人への適用には難色を示した。しかし日本の内務省は、講和条約発効までは国籍変更なしとの伝統的国際法理論や実際上の必要を主張した。
こうしてGHQは4月中旬、内務省の主張を認め、日本国民であるが中国代表部発行の登録証保持者を適用対象とする方式を認めた。