
戦前日本の入管体制
戦後と比べた時、戦前日本の入管体制の特徴には次のものが挙げられる。
① 入管の主体は内務省、特に警察であった。
② 外国人の出入国管理に関する法律はなかった。それは勅令・内務省令によって行われた。また、入管に関する勅令・内務省令には実体的・手続き的法則が無かった。
③ 日本国民とされたにもかかわらず植民地(外地)出身者は入管の対象にされた。
これら3つの特徴は、日本敗戦からサンフランシスコ講和条約発効までの約7年にわたるGHQ 占領期に形成された戦後日本の入管体制に、強い影響を及ぼすこととなる。
特徴① 警察中心の入管体制
戦前の外国人の出入国管理は内務省、特に警察によって行われた。その体制は明治中期にほぼその形を整え、敗戦まで一貫した。
○宿泊其ノ他ノ件(1899年 内務省令第32号)
1899年に制定された宿泊其ノ他ノ件によると、警察官署は90日以上同一市町村に居住する外国人の氏名・住所・国籍とそれら変更の届出を所轄(第3~9条)し、警察官吏は外国人の審問と旅券の提出を命じることができた(第9条)。
○外国人ノ入国ニ関スル件(1918年 内務省令第1号)
最初の一般的な入管法として1918年に制定されたのは外国人ノ入国ニ関スル件である。
地方長官(東京府は警視総監)に外国人上陸禁止の権限を認め(第1条)、警察官吏が外国人に旅券提出や陳述を求めうる旨規定(第3条)している。
外国人ノ入国ニ関スル件はわずか全五条しかなく、戦後の入管法に比べれば詳細な退去強制についての事由や権限の規定を欠くなど、非常に簡略である。
しかしこれは外国人の自由を意味するものでなかった。「外国人は帝国臣民とは異り居住を拒まれざる権利を有するものに非ざるを以って、外国人の滞在が国の公安と相容れざるに於ては之が国外退去を命じ得べきことは国家の当然の権利」とされた(美濃部達吉『日本行政法(中)』1920年)。つまり「広範な裁量権を持つ内務大臣=警察が認定の主体である以上、詳細な退去強制事由を入管法上明文で規定する必要もなかった」のである(大沼保昭「出入国管理体制の制定過程」『新版 単一民族社会の神話を超えて』東信堂、1993年、22頁)。
○外国人ノ入国、滞在及退去ニ関スル件(1939年 内務省令第6号)
1939年になると外国人ノ入国、滞在及退去ニ関スル件が制定され、それ以後、入管が「特高警察により担われ、治安維持活動の一環として遂行されるという体制」(前掲、大沼)が整えられるようになった。
機構としても警視庁特高部の下に、「外事課(亜細亜係と欧米係とに分かれる)、内鮮課が置かれ、内鮮課は、朝鮮、台湾関係の特高警察、治安維持法違反事件を所掌すべきもの」とされるようになり、日本敗戦まで変わることが無かった。
特徴② 入管に関する法律と手続き的権利保障規定の不在
○入管に関する法律の不在
戦前日本では入管に関する法律が制定されず、勅令・内務省令に依拠することとなった。これは法律であれば必要となる帝国議会による協賛(帝国憲法によると主権は天皇にあった)が外国人の出入国管理に関しては必要とされず、それだけ行政権力への歯止めがかからなかったことを意味する。
○手続き的権利保障規定の不在
上に挙げた入管に関する勅令・内務省令には、いずれも実体的・手続きを定めた規定が無かった。つまり「入管行政の対象たる外国人と国家機関との関係は、もっぱら行政権内部の通達、訓令によって規律され」ることとなったのである。
大沼保昭氏はこのような戦前の入管体制について次のように指摘している。
「このように国家権力の優越性が法観念上も実生活上も支配するなかで警察が入管業務の大部分を担当したことは、入管イコール治安維持的発想にもとづく取り締りという結果をもたらすこととなった。このことは、帝国臣民とされつつも、次に述べる諸点で入管行政の対象とされた朝鮮人、台湾人の場合、日本人一般にしみついた差別意識と相俟ってとくに顕著な特徴をなすものだった。」(大沼、前掲、p24)
特徴③ 入管の対象とされた植民地出身者の存在
大日本帝国は朝鮮を軍事力を持って植民地とし同じ帝国の領土内に繰り入れ、すべての朝鮮人に日本国籍付与を強いた。そのため朝鮮人による朝鮮と日本列島との間の移動は、日本国籍者による日本国内間の移動にすぎないはずだった。
しかしながら朝鮮人は移動の原則自由な日本人と異なり、朝鮮人渡航管理政策によって移動を管理され、日本国籍を持つとされたにもかかわらず入管の対象とされた。