在日コリアン青年連合(KEY)

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​Interview

身近な在日コリアン

 のライフヒストリー


【話し手】 

  鄭信義(ちょん しに)さん 

   

 1982年、兵庫県生まれの在日コリアン3世。真宗大谷派僧侶。整体師。「リラクゼーションサロン 御影フィール」院長。「御影整体学院」学院長。著書に『“スマホ首”があらゆる不調を引き起こす! 30秒ストレッチで簡単改善』(講談社)『痛みがとれる! 血圧が下がる! 認知症予防! 奇跡の腰浮かせ 』(講談社) など。

 

2018/7/31 @KEY兵庫事務所(神戸三宮)

聞き手:崔大志(ちぇ てじ) 

編集&デザイン:李明哲(り みょんちょる)

​もくじ

◆実家は焼肉屋――――――――― p.1

◆将来、絶対お坊さんになろう

◆家が少しおかしくなるんです

◆お坊さんのヒエラルキー
◆マーラーカオ詰まりました!

◆求人冊子をめくっていたら

◆師匠との出会い――――――― p.2

◆「兄ちゃん、肩こりってなんや?」

◆23歳店長の挫折

◆量よりも質を求めて・・
 

◆幻のハワイアン・ドリーム――――― p.3

◆一歩踏み出すことが大事!

◆まず1000軒に挨拶

◆「自分の整体を受けたい」か――――― p.4

◆整体の可能性―「壁」を「門」にする

◆整体学校と社会実践について

◆自分をちゃんと見守ってくれる存在=大地――――― p.5

◆何が問題なのか?-浄土論から学ぶ​​

◆実家は焼肉屋
 
―――生まれた場所について教えてください。

兵庫県加古郡播磨町で1982年に生まれ、そこで育ちました。「人口島」と呼ばれていて、鉄工所関連がたくさんある地域で、24時間光が灯っていました。そこに高校卒業の18歳まで住んでいました。

――ご両親は元々そちらに住んではったんですか?

父方のオモニははじめ、広島にいて、そのあと長田に住んでいました。で、食べていけないということで、焼肉屋(ホルモン屋)を開業するため播磨町に来ました。そこは漁師の人とか、鉄工所関係の人がよく食べに来ていましたね、みんなすごい播州弁でした。父親の姿なんかも、まさに『血と骨』のような世界でした。肉を肉切り棒でたたく姿とか。

――小さいときから、家は焼肉屋?

ただ、元々、父親は画家目指してたようですし、母親は文筆家を目指してましたから、焼き肉屋はやりたい仕事ではなかったですね。

――店を手伝ったりしてたんですか?

姉は店を手伝っていましたけど、僕は嫌で嫌でしょうがなかったです。来てたお客も好きでなかったし。エプロンに染みついたキムチや肉の血の匂いは、淡い記憶として残っています。

◆将来、絶対お坊さんになろう
 
――高校はどちらにいかれてたんですか?

淡路農業高等学校(現 淡路高校)です。

――なぜ農業高校だったんですか?

実は、小学校のころからの夢がお坊さんになることでした。というのも、うちの店に来て平日から肉をガバガバ食べてる人がいて、「あのおっちゃんなんの仕事してるん?」と母親に聞いたら「お坊さんやで」と言われ、その瞬間光が差して、「世の中にこんな仕事があるんかと」(笑)。そのお坊さん、クリスマスに、僕にとってすごい高価なものだったラジコンをくれるんですよ。「なんや、この人。将来、絶対お坊さんなろ」って思いました。それで勉強する気をなくしたようです。その結果、自分の学力で入れるのが、進学を前提としてない淡路農業高校しかなかったんです。播磨町から淡路へ通学していました。

―――高校生活はどんなかんじでしたか?

高校生活はアフロにしたりして、勉強せずに遊んでいました。なぜか卒業したら進学してお坊さんになれるもんやと思っていたので。高校二年の夏くらいに先生から、「お前このままやったら大学行かれへんぞ」って言われて、スイッチが入りました。そこから勉強しはじめたら、学年一位になったんです。なぜなら周りがみんな勉強しなかったから(笑)。それで推薦枠でそのまま大谷大学に受かりました。大学進学は学年でたった二人でした。四年制大学の方も受かったけど、お金がなかったので、資格を取れる短大にしました。そこで無事に真宗大谷派教師資格というお坊さんの資格を取得しました。

 

◆家が少しおかしくなるんです
 
――ご両親やご家族は、進路に関しては?

中学のときあまりにも勉強しなかったので、家族からは中学出たらすぐ働いたら?と言われていました。でもけっきょく、大学進学のころから「やりたいようにやったらええ」と。父親は型にはめようとする面もあるけど、ことごとくそれに失敗してるかんじ。けっこう肩書にこだわるし、チェサもしっかりやる方です。

―いまでも焼肉屋は続いているんですか?

 

実は僕が中学生くらいから、家が少しおかしくなるんです。というのも、父親が、オカリナ奏者としてCDを発表します。これがけっこう売れて、コンサートなどで仕事が入ったりして、「鄭光均(ジョン カンギュン)」という本名で活動します。一方、母親も毎日新聞社に論文で入賞して、100万円もらうという事件が起こりました。そして両親ともに講演依頼が来るようになって。それでもう、焼き肉屋どうするの?ってなって(笑)。

――すごいですね(笑)。他のご兄弟は?

 

兄は役者を目指して、高校卒業して単身で大阪で舞台俳優をして。その後、劇団に入って、日本全国を巡業するような仕事をしてました。そのあと東京で俳優をしていましたが、「俺の住みたい街はまちは俺が決める」と言って、日本を三周して、今は沖縄で大工をしています。43歳です。姉は大阪のUSJで働いて、彼氏と結婚するところまでいったんですけど、その人がちょっと右よりの人で、「日本人が世界で一番」というようなかんじで。どうしても話がぶつかるかんじやったみたいですね。それで今は、姉も沖縄に行って、障害者の支援する場所で働いたりしてましたね。40歳くらいです。母もいまは沖縄にいます。

 

◆お坊さんのヒエラルキー
 
―ご家族の話をもっと聞いていたいくらいですが、お坊さんの資格を取ってから、どうなりますか?​

お坊さんって、すごい格差、ヒエラルキーなんです。まずお寺の子どもじゃないと住職になれないですし。いま、空き寺が増えてますけど、そこにいって、雑草だらけの廃墟みたいなお寺で、補修に何千万かかりながら、耕してっていうのも現実的ではない。かといって、どっかのお寺に入ったら24時間、使いっ走りになるわけですし。

 

それはさすがにちょっと無理やなとなって、しばらくフリーターをします。というのも、友達が「役僧」(やくそう)という、どこかから仕事を分けてもらう僧をするんですけど、それを見てたら地獄のような、ブラック企業よりひどいみたいで(笑)。例えば、各お寺にお参りをしていくんですけど、そのお参りの数が尋常じゃない、人間がこなせる量じゃなかったりとか。帰ってきたら帰ってきたで、ごはん作らなきゃいけないですし。かつ出世は見込めないっていう。今はその友人は京都にある本山のお寺で働いてますけど、やっぱりそういう本山勤務がいいかなと。最近は、ブラックな寺の仕事も是正されているようですけど。プライベートもくそもないですから。そういうの見ながら、これはやってられへんぞとなって、フリーターで仕事をしていました。

 

◆マーラーカオ詰まりました!
 
――いろいろなお仕事をされたんですか?

 

いろいろしましたね。引っ越し屋、パン工場、本屋さんとか。引っ越しやパン工場などは、直接に人と接するような仕事ではなくて。

 

僕、流れ作業とか単純作業ができないんです。ピザまんに「ピザ」って文字をじゅっと打っていく仕事でも、まっすぐ真ん中に打つことができないんですよ。まっすぐ打てなかったものは全部廃棄なんですよ。それでめっちゃ怒られるんですよ。「お前はピザも押されへんのか」と言われ、こんどは違うとこでライン作業でシールを貼るんですけど、明らかに流れてくるスピードの方が早いんですよ。隣のおばちゃんとかすごい速さでやってるんですよ。そのスピードに負けて「お前ここでも使えへんのか」ってなって。

 

最後は、「マーラーカオ」っていうパンがあって、それが流れて来て、たまに詰まるんですね。それを僕はずっと見てて「マーラーカオが詰まりました!」っていう仕事(笑)。8時間。もうマーラーカオが流れていくのをずっと見てたら、ほんま頭おかしくなりそうで、、、。ハッと気が付いたら、めっちゃマーラーカオ詰まってるんですよ!そんで「マ、マ、マーラーカオが詰まりましたー!!!」って言ったら、職員の人たちがうわーって走って来て「遅い!!」って、むっちゃ怒られて、「お前はこんな仕事もできないんか!」って。でも「だって、しゃあないやん」って思って「じゃあ僕がマーラーカオを詰めなおしますよ」って言いたいけど、それは社員の人じゃないとできないので。

 

もう完全に自信なくしてしまって。そのとき引っ越し屋で腰もこわしましたし。グランドピアノを三人で持ち上げたとき、腰がミチってっいったんですよ。でなんか、そのグランドピアノの持ち主の大家さんが、抱いてる猫を撫でながら、僕たちが運んでいくのを見てて。なんかすごい、格差みたいなんを感じました(笑)。

 

◆求人冊子をめくっていたら

 

そんなので、直接人と触れ合う仕事がしたいなあ、と思うようになりましたね。そこで求人冊子をめくっていたら、二つありました。一つは整体。もう一つは介護福祉。そのとき、今とは比べ物にならないくらい、介護福祉士にスポットライトが当たっていたので。今よりももっと給料が高かったですしね。人材募集してましたし。「これからはこの仕事!キラキラキラ」みたいなかんじありましたけども。

―――――いくつくらいの話ですか?

 

これ、19くらいですね。大学出たあとです。介護福祉士になるんだったら、お金がまた必要だったんですよ、専門学校に行かないといけないから。でも、整体だったらお金もらいながら、仕事ができるし、技術を教えてもらえるんですよ。見習いのかたちで。素晴らしいじゃないですか。整体は民間資格なので、専門学校に通わなくていいんですよ。

 

あと、今はもうないですけど、クイックマッサージの全盛期だったんで。座りながら後ろからやるマッサージで。あれが「マンハッタンマッサージ」と言われてたんですよ。あれをパチンコ屋でやったら流行るやろって思ったオーナーが、パチンコ屋で店をオープンして、そのために人を集めたいから、技術教えますよっていう募集が出てたんですね。だから整体師なった理由も、はじめ積極的じゃないんですよ。消極的だったんですよ。「整体師なれるよ、人の役に立てるよ、わーい」ってかんじじゃなくて。「どっちにしようかな?こっち」みたいな(笑)。