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朝鮮半島の歴史1‐韓国併合まで

 

欧米列強によるアジアの植民地化と日本の明治維新

 18世紀末から19世紀にかけて、さらなる資本主義化を推し進め独占的な国外市場を獲得するために、世界各地で植民地獲得を競い合っていた欧米列強は、当時未だ植民地化を免れていたアジア各地に開国を迫った。これら欧米列強による植民地化の圧力に、アジアの隣国同士であった日本と朝鮮はどのように対応したのであろうか。

 先に開国を迫られたのは日本であった。1853年、日本にペリー率いる米国の軍艦が来航し、徳川幕府は1858年に「日米修好通商条約」という不平等条約を結び、約200年間続いた鎖国政策が変更を迫られていった。これに続いて幕府はイギリス、ロシア、フランス、オランダとも同様の条約を結び、西欧諸国と貿易するようになった。1868年には徳川幕府は「大政奉還」を行い天皇に政権を移譲し、いわゆる「明治維新」が起こった。新政府は、西欧諸国にならって近代化を推し進め、将軍と大名を置く制度を廃止し、身分制度を改め、徴兵制度や義務教育制度を作るなど、日本の社会の仕組みを大きく変えながら、天皇を中心とする国づくりをしていった。

 明治維新後、新政府の成立を知らせるとともに開港を求めるため、日本は朝鮮に特使を送った。しかし、その文書に「皇」や「勅」という文字が含まれていたことや、文書の内容などがこれまでの慣例と違っていたことが問題となり、朝鮮政府はこの文書を受け取らなかった。この時期、日本では朝鮮を武力で開国させようという「征韓論」が唱えられ始めた。また、このころの日本では、欧米の暮らしを経験してきた知識人たちによって西欧の文化が導入される一方、アジア諸国に対する蔑視観が広められていった。福沢諭吉は、1875年に刊行した「文明論之概略」で日本は西洋を手本として文明化を図るべきだと主張し、1885年には、アジアを切り捨て、西欧諸国と同じようにアジアへの侵略を進めていこうとする「脱亜論」を説いた。

 このように、欧米列強からの圧力によって不平等条約を結び開国を余儀なくされ、植民地化の危機にさらされた日本は、アジアを侵略し植民地化することによって近代化を成し遂げるという道へ進んでいくことになった。

 

朝鮮の開国

 欧米列強がアジア各地で開港を迫る中、朝鮮では国王高宗(コジョン)の実父である大院君(テウォングン)が実権を握り、大院君は国を守るために外国との通商を拒否し、強力な鎖国政策を堅持していた。しかし、1873年に大院君が政権を奪われ、代わって高宗の王妃の閔妃(ミンビ)一族が実権を握ると、朝鮮に対する開国要求に行き詰っていた日本政府は軍事的圧力をかけて事態を打開する方針をとった。1875年、日本政府は軍艦「雲揚」を江華島に向かわせ、朝鮮側を意図的に挑発し、武力衝突を起こした。この江華島事件を口実に、日本政府は艦船6隻を率いて武力を背景に開港を迫り、1876年に日朝修好条規(江華島条約)が締結された。この条約はわずか20年前に日本が欧米列強と結んだ条約と同様に、朝鮮にとって不平等なものであった。この不平等条約のもと、日本の経済的侵略を受けて朝鮮の民衆の生活は圧迫された。

 朝鮮政府は開化派の主張を受けて、近代的な軍備や技術、政治体制を導入する開化政策を推し進めた。1882年にはアメリカと朝米修好通商条約が締結され、続いてイギリス(1883年)、ドイツ(1883年)、ロシア(1884年)、イタリア(1884年)、フランス(1886年)と修好通商条約を結んだ。それらはいずれも、各国に対し特権を認める不平等条約であった。

 

壬午軍乱と甲申政変

 開国した朝鮮では、次第に朝鮮の支配をめぐる日本と清の勢力争いが激しくなっていく。1882年、漢城で兵士・民衆の暴動が起こり日本公使館を襲撃、王宮を制圧した(壬午軍乱(1))。日本政府は事件の謝罪・賠償請求に関する朝鮮政府との交渉に伴って朝鮮へ軍を派遣した。一方、清国は、「朝鮮は清の属国であるから、清国が事件処理にあたるのは当然」として、日朝間の交渉に介入した。この後、朝鮮では清国による軍の指導と通商の独占が始まり、清朝間の宗属関係がより強化されることになった。

 日本は清の朝鮮への干渉を排除するため、急進的な開化派の金玉均(キム・オクキュン)らを支持し、親日的な政権を樹立しようとした。1884年、清仏戦争で清の朝鮮駐屯軍の半数が引き上げた折に急進開化派はクーデターを起こすが、失敗に終わった(甲申政変)。

 

(1)朝鮮では閔氏政権下の軍制改革により新式軍隊が創設され、日本人の軍事教官が指導を行っていた。差別待遇を受けて不満を募らせていた旧式軍隊は、米の不正支給をきっかけに不満を爆発させ、これに日本への米の輸出による米価暴騰に苦しんでいた民衆が加わって抗日暴動となった。政権奪還を狙う大院君がこれに乗じて日本公使館襲撃を教唆し、王宮を制圧された朝鮮政府は大院君に政権を渡した。しかし、清が援軍を送り大院君を清に連行して閔氏政権が復権した。

 

日清戦争

 1894年、全羅道古阜において全琫準(チョン・ボンジュン)の指導下で農民が蜂起し、農民軍は道都の全州を占領した(甲午農民戦争)。この蜂起を鎮圧するため、朝鮮政府は清政府に援軍を要請したが、朝鮮への侵略を準備していた日本はこの情勢を利用して朝鮮に軍隊を送った。朝鮮国内が落ち着きを取り戻したあとも、日本は朝鮮で軍事占領を継続し、1894年7月23日には朝鮮王宮を攻めて国王などを拘禁し、中国との間で結んでいた条約を破棄させた。さらに7月25日には、黄海で清の軍艦と輸送船を攻撃し日清戦争が始まったが、清軍の軍備不足や戦意低下のため、日本が清に勝利した。

 この日清戦争の講和条約として下関条約が結ばれ、(1)中国は朝鮮を独立国と認める。(2)中国は遼東半島、台湾、澎湖諸島を日本に割譲する。(3)日本軍費の賠償金2億テールを支払う。(4)沙市・重慶・蘇州・杭州を通商港として開港し、日本の汽船の入港を認める、等の内容で日本は中国から多くの利益を獲得した。しかし、その直後にロシア・ドイツ・フランスが遼東半島を返還するように求め、日本はそれを受け入れざるをえなかった(三国干渉)。

 

日露戦争

 三国干渉の後、ロシアの朝鮮に対する影響力が増していった。あせった日本は朝鮮に親日的な政権を作ろうと、日本軍守備隊や大陸浪人を景福宮に侵入させ、高宗の王妃である閔妃を殺害した。この事件で日本は国際的な非難を受けるが、日本政府は殺害を企てた日本公使らを召還し、形だけの軍法会議にかけ、証拠不十分で全員無罪とした。朝鮮では反日感情が高まり、各地で抗日義兵闘争が広がった(初期義兵闘争)。

 1897年、高宗は国号を「大韓帝国」(以下、韓国とするが戦後の大韓民国とは異なる)と改め、自主独立の国家であることを内外に宣言し、絶対的な権力を持つ皇帝による専制君主国として改革を進めた。しかし、朝鮮での支配体制を確立させたい日本は韓国の保護国化を掲げて対ロシア戦へと踏み切り、1904年2月、日本艦隊が仁川沖のロシア艦隊を奇襲して日露戦争が始まった。

 漢城を軍事制圧した日本は、韓国政府に日韓議定書を調印させ、韓国の政治に干渉する権利を確保した。ついで第一次日韓協約を強要し、財政と外交に関する部署に日本政府が推薦する人物を顧問につけることを認めさせた。日露戦争は日本・ロシア双方が次々に軍事力を投入し大規模に展開していき、ともに甚大な損害を被りながら、辛うじて日本が優勢を保った。

 日本は財政的に戦争の継続が不可能であったため、アメリカに調停を依頼し、ロシアもこれを受け入れた。日本は講和条件を有利に導くため、桂=タフト協定でアメリカのフィリピン支配を認め、第二次日英同盟でイギリスのインド支配を認めることで、日本の韓国支配を両国に承認させた。そして1905年9月に日露講和条約(ポーツマス条約)が調印され、日本はロシアから韓国支配の承認をとりつけた。

 その後すぐ、日本政府は韓国政府と第二次日韓協約(乙巳条約)を結んで韓国を保護国とし、翌年には統監府が設置され、初代統監に伊藤博文が就任した。こうして日本は軍事・外交・財政・交通・通信・産業の分野で利権を獲得し、韓国を実質的な植民地状態にしていった。

 

抗日義兵闘争と弾圧

 日本の侵略に対し、韓国国内では多くの人々が抗日闘争を繰り広げた。

 1907年6月、韓国の高宗皇帝は、オランダのハーグで開かれた万国平和会議に特使を送り、条約の不当性を訴えようとしたが、大国は特使との面会を断り、失敗に終わった。

 また、「討倭」を叫び、身分や職業を越えて立ち上がった義兵たちは、全国各地で激しい抵抗を繰り広げた(後期義兵闘争)。日本は義兵を鎮圧せねば韓国を植民地化できないと考え、義兵に対し大規模な弾圧を加え、1909年9月から「南韓大討伐作戦」を行なうなどして多くを虐殺した。その数は日本側の資料によると、1910年までに17,688名に上る。

 義兵部隊の指導者でもあった安重根(アン・ジュングン)は、1909年10月26日、中国東北のハルビン駅で初代韓国統監であった伊藤博文を射殺した。安重根はその5ヵ月後に処刑されたが、最後まで韓国の独立を訴えた。

 大規模な日本の軍事作戦によって抗日闘争は制圧され、義兵部隊は独立軍活動拠点を満州や沿海州へ移動していくこととなった。

 

韓国併合条約締結

 日本は覚書によって韓国の司法権・警察権を奪い、また、イギリス・ロシア両国から韓国植民地化の合意を取り付け、その条件を整えていった。特に1905年、大韓帝国は第二次日韓協約を結んでいるが、それ以来外交権を日本に奪われていた。

 第3代統監の寺内正毅は親日派である李完用首相に条約を受諾させ、1910年8月22日、厳戒体制の中、「韓国併合条約」(※1)が締結された。

 

(1)「併合」という文言は、当時の外務省政務局長であった倉知鉄吉の創作であったことが彼の回顧録「韓国併合ノ経緯」によって明らかになっている。「合併」では日韓が対等であるかのような意味があり、「併呑」では侵略的な意味がするので、「併合」という語を作ったという。今もなお「併合」という語が使われる場合が多いが、注意が必要だ。

(2)韓国併合条約の第一条は「韓国皇帝陛下は韓国全部に関する一切の統治権を完全且永久に日本国皇帝陛下に譲与す」とあり、朝鮮半島が日本の植民地であることを示す。

 

 

朝鮮半島の歴史2‐植民地時代

植民地統治のはじまり

 日本政府は韓国を併合すると、大韓帝国の国号を「朝鮮」、首都・漢城の名称を「京城」に変え、朝鮮総督府を設置した。朝鮮総督は天皇に直属しており、立法・司法・行政の三権と、さらには朝鮮に置かれた日本軍の統率権をも持つ絶対的な権力者であった。三権と軍統帥権を総督が一手にする法的構造は、当時の大日本帝国憲法の法体系と異なり、朝鮮半島は憲法の及ばない異法地域である「外地」とされた。

 日本は抗日運動を押さえるため、「武断統治」と呼ばれる強力な武力弾圧による支配を行った。朝鮮駐剳憲兵条例によって朝鮮各地には軍の憲兵と警察が一体化した憲兵警察制度がつくられた。憲兵はその他にも戸籍事務や日本語普及など多くの仕事を担当し、さらには犯罪即決令によって裁判を経ることなく朝鮮人を処罰する権限をも持っていた。

 

土地調査事業

 日本は1910年から1918年まで「土地調査事業」という政策を実施し、大規模な土地の収奪を行った。当時の朝鮮では厳密に土地の所有権は確定していなかったが、近代的な土地所有権の基礎を作るという名目で、土地の所在地、所有者、価格、地図、地形、坪数などを調査・確定した。しかし、実質的には日本がより多くの土地を管理し、各種納税で利潤を得るための政策であった。この調査では自分の土地の所在地などを申告することになっていたが、手続きが複雑であったこと、申告が日本語であったことなどで届け出ない農民が多かった。これによって、申告期限切れや形式の不備などで土地を奪われる農民が続出した。多くの自作農は土地を奪われ、小作農に転落し、農民の貧困層が飛躍的に増加した。この政策により地税収入は2倍に増え、1920年には朝鮮総督府が所有する土地は11万余ヘクタールにも及んだ。当時の朝鮮では、約80%が農民であったため、それ以前の生活様式を破壊され、仕事がなくなった人々は日本や中国東北地方(満州と呼ばれる)、シベリアへ移住せざるを得なくなった。

 土地調査事業が行なわれた1910年代には、在日朝鮮人人口は増大し、1911年に2,527名であったものが(内務省統計)、1920年には約3万名となり、この事業が朝鮮民衆に与えた影響は大きかったことがわかる。

 

3.1独立運動

 朝鮮民衆に対する支配が日に日に強くなる中で、国内外で独立運動が行なわれた。朝鮮国内では、秘密裏に独立運動団体が結成され、満州では多くの団体が学校を建て、独立軍を作った。このような中で朝鮮における独立運動の機運がさらに盛り上がりをみせたが、その背景には被抑圧民族の民族自決権擁護を謳ったロシア革命の成功や、第一次世界大戦後のパリ講和会議でのウィルソン米大統領が民族自決を説くなどの国際情勢もあった。

 1919年1月ごろから宗教界と学生を中心に大規模な独立運動が準備されていった。また、日本に留学していた朝鮮人学生らが2月8日、東京神田のYMCAで独立を要求する宣言書と決議文を宣布し、この2.8独立宣言は朝鮮に持ち込まれた。こうして、独立運動が大きな一つの流れとなって朝鮮各地に広がっていった。

 1919年3月1日、独立運動の主導者たちは、33名の代表が署名した独立宣言文を朗読し、国内外に独立を宣言した。ソウルのパゴダ公園に集った民衆は「大韓独立万歳」を叫びながら街をデモ行進した。

 3.1独立運動での朝鮮人の決起は日本に大きな衝撃を与えたが、日本は全国で厳しい弾圧を行い、多くの民衆が逮捕され、拷問を受けた。水原郡堤岩里では、日本軍・警察によって住民30余名が教会に集められ、教会を焼かれ銃殺されるという虐殺事件があった。

 3.1独立運動には女性も多数参加しており、柳寛順(ユ・グァンスン)という人物は「朝鮮のジャンヌ・ダルク」と呼ばれ、語り継がれている。ソウルのデモに参加した16歳の柳寛順は独立運動を行うことを決意し、故郷の天安の人々に働きかけて、4月1日天安にて集会を開き、デモ行進を行った。柳寛順は逮捕され、ソウルの西大門刑務所に収監され、翌年10月拷問により獄死した。

 3.1独立運動が起きてから1年ほどの間に、5万人近くが逮捕され、7500人以上が殺された。

 

3.1独立運動以降の植民地政策

 3.1独立運動以後、日本はこれまでの抑圧的な統治の方法では朝鮮民衆を抑えることはできないと考え、「武断統治」に変わって「文化統治」を開始した。これまでの憲兵警察制度は普通警察制度に改められ、言論、集会、結社の自由が部分的に認められた。これによって、朝鮮総督府は政策に協力的な親日派の朝鮮人を育て、安定した支配体制を作ろうとした。一方で、警察の数は大幅に増え、1925年制定の治安維持法が朝鮮半島にも適用されるなど、実態として朝鮮民衆はより強く監視され、弾圧を加えられた。

 

産米増殖計画

 朝鮮総督府は1920年から1933年にかけて「産米増殖計画」という農業政策を実施した。当時、日本国内では、第一次世界大戦をきっかけに物価が上昇、米の価格が高騰し、1918年には全国的な米騒動が起こった。この対策として日本国内への安定した安価な米の供給を図るために、朝鮮における米の生産高を大幅に増加させようとした。

 灌漑施設の増設、耕地の整理が行われ、米が増産され、日本人地主は大きな利益を得た。しかし、朝鮮人の小規模自作農民たちは生産した米も十分に与えられず、農業経費増大のため経営難に陥り農地を手放す農民が増え、その多くが小作農に転落していった。「産米増殖計画」が実施された年の朝鮮半島の耕地面積の50.8%が小作地であったが、10年後にはその比率は55.6%に増加した。そして、小作農民は全農民比率のうち39.8%から45.6%に増加した。また、米の生産高は1.27倍増加したのに対して、日本への輸出量は3.27倍も増加したため、朝鮮内部において食糧が大幅に不足し、米価が高騰した。この結果、朝鮮農民の生活はますます破壊され、多くの民衆が仕事を求めて朝鮮半島の外へ流れて行かざるを得なかった。半島北部の民衆は陸路から中国東北地方へと、南部の民衆は玄界灘を越えて日本へとやってきたといわれている。

 このような経緯から、1920年に約3万人であった在日朝鮮人の人口は、20年代を通じておよそ10倍に急増した。

 なお、在日朝鮮人の増加を前にした日本は、1923年に「民籍法」(※1)に変わる「朝鮮戸籍令」を施行し、婚姻や養子縁組を除いて朝鮮人が内地に戸籍を移すことを禁じた。法的には日本人と同じ日本国籍としていた朝鮮人が、渡日して長年生活した後も両者を峻別できるよう、戸籍の取り扱いを差別化したのである(※2)。

 

(1)「民籍法」は韓国併合条約に先立つ1909年に制定されている。

(2)なお朝鮮戸籍令施行以前からも、日朝間の移動については朝鮮人のみを対象とする渡航管理制度がはじまっていた。日本人の日朝間の移動は原則自由であった。(「在日コリアンの歴史1‐渡航管理制度について」)

 

大韓民国臨時政府の樹立

 朝鮮人の独立運動は国外でも活発に行われた。朝鮮人独立運動家たちは、3.1独立運動が起こった後、1919年4月に中国・上海で大韓民国臨時政府を樹立し、李承晩を大統領に選出した。1932年、日本が上海を占領した後は、中国重慶に移って抵抗を続けた。臨時政府は韓国光復軍を組織し、1941年、日本に宣戦布告し、連合軍に参戦して日本軍と戦った。

 また、韓国併合後、満州、沿海州に拠点を移した抗日武装勢力は、当時、生活の糧を求めて移住していた朝鮮人とともに独立軍を組織して、日本軍との武装闘争を続けた。

 

日中戦争・アジア太平洋戦争の開始と皇国臣民化政策

 日本は1931年に「満州事変」を引き起こし、1937年に日中戦争に突入した。さらに1941年にはアジア・太平洋戦争が開始した。朝鮮半島は日本の侵略戦争遂行のための兵站基地として位置づけられ、軍需物資や労働力の供給を担わされることとなった。

 日中戦争突入後、朝鮮人を戦争に動員させるため、日本政府は「内鮮一体」をうたい、「皇国臣民化」政策を行った。これは天皇への忠誠心を育て、日本の戦争遂行に協力的な朝鮮人を作ることを目的とし、朝鮮人の民族性を奪い日本人への同化を強制する政策であった。「皇国臣民化」政策は1937年に本格的に始まり、以下のようなことが行われた。

  • 「皇国臣民の誓詞」を暗誦し、天皇の臣民として天皇に忠誠を尽くすことを誓うことを強要した。

  • 日本は朝鮮半島各地に神社を作り、神社参拝を強要した。これを拒否したキリスト教信者に対しては弾圧を行った。

  • 天皇の住む宮城(皇居)に向かって拝礼することを強要した。(宮城遥拝)

  • 1938年に教育制度を変更し、学校での朝鮮語の使用を禁止、日常的な日本語の使用を強要した。

  • 1940年に創氏改名を実施し、朝鮮人の姓名を日本式の氏名に変更させた。

「皇国臣民の誓詞」

こども用「皇国臣民の誓い」
 一. 私共ハ大日本帝国ノ臣民デアリマス。
 二. 私共ハ互イニ心ヲ合ワセテ、天皇陛下二忠義ヲ尽シマス。
 三. 私共ハ忍苦鍛練シテ、立派ナ強イ国民トナリマス。

 

大人用「皇国臣民の誓詞」
 一. 我等ハ皇国臣民ナリ、忠誠以テ君国二報ゼン。
 二. 我等皇国臣民ハ互イニ信愛協カシ以テ団結ヲ固クセン。
 三. 我等皇国臣民ハ忍苦鍛練力ヲ養ヒ以テ皇道ヲ宣掲セン。

 

朝鮮人の強制連行(戦時労働動員)

 日本は戦争の拡大・長期化で不足する兵士の数を補うため、1938年に陸軍志願兵制度、1943年に海軍志願兵制度および学徒志願兵制度、1944年には徴兵制を実施し、日本の敗戦までに約21万人の朝鮮人が戦争に動員された。

 また、日本国内における労働力不足を補うため、「強制連行」(戦時労働動員)(※3)が行われた。1939年からは「朝鮮人労働者募集要項」による「募集」方式、1942年からは、「鮮人内地移入斡旋要綱」による「官斡旋」方式、1944年以降は「国民徴用令」を朝鮮人にも適用した「徴用」方式が実施された。強制連行された朝鮮人は、日本各地やサハリンの炭坑、鉱山、工事現場、軍需産業工場等で、厳しい労働条件の下で労働させられた。これまでの研究によると、70万~80万人の朝鮮人が強制連行されたといわれている。

 また、当時朝鮮人女性が日本軍「慰安婦」として意に反して連行され、沖縄、中国、東南アジア等の前線に送り込まれ、日本軍の性奴隷にされ、身体的・精神的に多大な被害を受けた。その数は一説に、8万~10万人ともいわれる。

 

(3)90年代以降の研究の進展の中で解明されてきた強制連行の実態を踏まえて、これを戦時労働動員と呼ぶべきとする意見が出ている。山田昭次他『朝鮮人戦時労働動員』(岩波書店)は朝鮮人戦時労働動員の特徴に(1)強制連行、(2)強制労働、(3)民族差別の三つをあげている。

 

原爆投下と日本の敗戦

 1945年7月、連合国首脳による対日共同宣言(ポツダム宣言)が発表され、植民地・占領地の放棄、軍国主義勢力の除去、戦争犯罪人の処罰等の内容の要求が日本政府に突きつけられた。7月8日にはソ連が日本に宣戦布告した。そして、米国によって8月6日に広島、9日には長崎へ原子爆弾が投下され、広島市では約16万人、長崎市では約7万4千人が亡くなった。被害者には数多くの朝鮮人や捕虜として収容されていた外国人も含まれている。朝鮮人の被害状況は、広島市で約5万人が被爆、約3万人が被爆死(即死あるいはその年の末までに死亡)し、長崎市で約2万人が被爆、約1万人が被爆死したと推計される。(※4)

 1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾したことを発表し、戦争は終結した。これにより朝鮮半島は36年間にわたる日本の植民地支配から解放を迎えた。

 

(4)市場淳子『ヒロシマを持ち帰った人々』(凱風社)P.27-28

 

 

朝鮮半島の歴史3‐解放と分断

 

米ソによる分断統治

 アジア太平洋戦争中、朝鮮半島の戦後処理に関して連合国間での話し合いが行われていた。1943年の米国・中国・イギリスの三国首相によるカイロ宣言では、「朝鮮人民の奴隷状態に留意し、朝鮮の自由独立を保障する」と確認された。またポツダム宣言においても、カイロ宣言の履行を約束した。しかし、1945年2月、米国・イギリス・ソ連の三国によるヤルタ会談では、朝鮮を米・中・ソ・英による国際信託統治下に置く案が非公式に協議されていた。そして日本のポツダム宣言受諾後、米国の提案により、朝鮮半島における日本の武装解除に関し、北緯38度線の北側をソ連が、南側を米国が担当することが決定した。

 1945年8月15日、日本が敗戦すると、朝鮮は解放の喜びに沸き、一刻も早く自分たちの国を作り上げようと多くの人々が動き出した。朝鮮建国準備委員会(委員長:呂運亨(ヨ・ウニョン))が結成され、左右を問わず朝鮮各界各層を網羅した組織が作られた。そして、9月6日には朝鮮人民共和国を樹立した。しかし、9月8日に米軍が仁川に上陸し、北緯38度線以南には米軍政がおかれ、朝鮮人民共和国は否定された。また、北緯38度線以北にはソ連軍が駐留した。こうして朝鮮では、解放後間もなく米ソ両大国による分断統治が始まった。

 

信託統治をめぐる動きと2つの政府の樹立

 1945年12月27日、モスクワで米国・イギリス・ソ連の外相による3国会談が行なわれ、朝鮮が最長5年に亘って米・英・ソ・中4カ国による信託統治を受けることが決定した。その結果、国内では信託統治賛成派、反対派に2分され、大きく対立した。

 1946年に第1回米ソ共同委員会を開催し、統一臨時政府の樹立について話し合われたが、米ソの対立が深まり、結局決裂する。その後、米国は親米派政権樹立を目指して左右合作運動を支援したが、第2回米ソ共同委員会も決裂すると、南側だけの単独選挙の実施へと方針を転換した。

 1947年11月に国連に臨時朝鮮委員団が設置され、1948年2月に国連小総会で「可能な地域における選挙」実施案が可決された。このような動きに対し、朝鮮の民衆は反対闘争を展開した。済州島では、南朝鮮の単独選挙に反対した住民が武装蜂起し、軍隊や警察・右翼による鎮圧過程で多くの民間人が虐殺されるという「済州島4.3事件」が起こった。

 1948年5月10日、南側だけでの単独選挙が実施され、親米派の李承晩政権が誕生し、同年8月15日に大韓民国政府が樹立した。北側では1948年8月25日に人民会議の代議員選挙が実施され、9月9日に金日成を首相とする朝鮮民主主義人民共和国が樹立した。こうして朝鮮半島には38度線を境に2つの国家が存在することになった。

 

朝鮮戦争と分断の固定化

 韓国は「北進統一論」を、北朝鮮は「革命基地論」をそれぞれ唱え、政権の正統性を争い、38度線をはさんでたびたび対立を重ねていた。ついに、1950年6月25日、朝鮮人民軍が38度線を越えて侵攻し、朝鮮戦争が勃発した。朝鮮人民軍は一気に南下し慶尚北道の洛東江まで進軍した。これに対し、ソ連不在の国連安全保障理事会にて「国連軍」の派遣が決定され、9月15日、アメリカ軍が「仁川上陸作戦」を決行し、朝鮮人民軍を中朝国境付近まで追い詰めた。さらに10月には中国軍が参戦し、戦線は再び南下したが、38度線付近で膠着状態となった。1951年7月から休戦会談が始まったが協議は難航し、1953年7月27日に板門店で休戦協定が結ばれた。

 死者は民間人を含め約200万人を数え、また、多くの離散家族が生まれ、現在でも南北に離れて暮らす家族は1500万人いるといわれている。この朝鮮戦争で南北の分断は確定的になり、その後も休戦状態のまま現在に至る。

 一方、日本は米国の後方支援として戦争に加担し、物資や基地の提供を行ったことで「朝鮮特需」が生まれ、経済回復を達成する土台ができた。