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在日コリアンの歴史1‐解放前編

 

韓国併合による朝鮮植民地支配

 日本に居住する朝鮮人は、19世紀末頃から留学生を中心に数百名ほどいたといわれるが、日本に渡航する朝鮮人が増えたのは1910年の韓国併合以降であり、本格的に増加するのは20~30年代である。

 日本が1910年から1918年まで朝鮮において行なった「土地調査事業」という政策によって、多くの朝鮮人農民が土地を奪われた。朝鮮では農業以外の産業がまだ十分発展しておらず、土地を奪われ貧困に陥った農民は、生活の糧を求めて日本、満州、ロシア沿海州などへ移住した。日本へはとくに朝鮮南部から渡っていった者が多かった。

 同じ頃、日本の(とくに紡績、石炭、土建関係の)企業は安い労働力の確保のために、朝鮮での労働者の募集に力を入れるようになった。これらの業種の労働環境は、当時の日本では最も劣悪なものであり、朝鮮人労働者の賃金は日本人労働者よりも安いものであった(※1)。

 このように、仕事を求める朝鮮人と日本の急激な産業発展に伴う安価な労働力への需要が合致したことで在日朝鮮人人口は増加し、1917年には1万4500人あまりに達したという統計がある。

 

(1)「築港の富栄組では通常内地人仲仕が一円二,三十銭の日収あるとき、鮮人仲仕には九十銭を与へてゐる」(大阪毎日新聞、1917年8月14日付)

 

2.8独立宣言

 韓国併合当時、日本には朝鮮人留学生が数百名いた。大多数の学生は東京に集まっており、相互扶助会を作り、日本が取り入れた西洋的な近代文明や日本語を学ぶ一方、自由や独立について議論したりした。その中からは、多くの民族主義者が生まれた。

 第一次世界大戦の終結後、アメリカのウィルソン大統領の民族自決宣言に大きく刺激を受けた朝鮮人留学生たちは、1919年2月8日、東京で独立宣言文を発表した。この2.8独立宣言は朝鮮に持ち込まれ、朝鮮全土に広がる3.1独立運動の流れにつながっていった。

 

関東大震災と朝鮮人虐殺

 1923年9月1日、関東大震災が発生し、10万人にものぼる死者を生み出した。地震後、首都圏は戒厳令下に置かれたが、混乱する状況の中で朝鮮人による放火や井戸への毒物混入のデマを軍・官憲は意図的に流布させた。そのようなデマを信じた日本人によって多くの朝鮮人が捕らえられ、虐殺された。これらの虐殺を行なったのは、日本軍や警察、そして各地で組織された自警団を中心とした一般の日本人であった。

 この関東大震災時に殺害された朝鮮人は数千人に上ると考えられる(※2)。関東地方では、虐殺されたり、捕らえられたり、あるいは虐殺を恐れ他の地域に逃れたり、朝鮮半島などに逃げ戻ったりするなど、朝鮮人はほとんど見られなくなったとまで言われた。関西地方の朝鮮人が朝鮮半島に逃げ帰ることも多く、この時期、下関は朝鮮に帰ろうとする朝鮮人で大混乱していた。

 現在、関東大震災における朝鮮人虐殺については民間レベルでの調査が引き続き行なわれており、犠牲者追悼碑の建立や追悼式の開催なども行なわれている。

 

(2)日本政府は正式な調査を当時から現在に至るまで一切行なっておらず、当時の司法省の発表では232人、朝鮮総督府の発表では832人とされている。一方、当時、上海にあった朝鮮独立グループの機関紙『独立新聞』の社長、金承学(キム・スンハク)が在日朝鮮人留学生と共に実態調査した結果では、6415人の犠牲者数を数えた。

 

朝鮮人の大量移住(1920年~1935年)

 関東大震災での朝鮮人虐殺を機に、日本への朝鮮人移住は一時期停滞したが、朝鮮半島では日本の植民地政策による貧困がさらに強まったことで、日本に渡る朝鮮人は増え続けた。産米増殖計画(1920年~1933年)という農業政策が実施されたことも在日朝鮮人増加の一因となった。この政策によって、小作農へ転落する農民が増え、また、朝鮮内部において食糧が大幅に不足し、米価が高騰した。このため、生活苦に陥った人々が職を求めて日本へ渡った。

 一方、日本国内では1920年代に不景気に入り、失業率の上昇が深刻な問題となっており、朝鮮人の急激な流入によって日本人の職が奪われるということが指摘された。こうした中、日本政府は渡航制限を実施したが(※3)、安価な朝鮮人労働者を求める日本の企業は、この時期も朝鮮に労働者斡旋業者を配して、朝鮮人の渡航を促進させた。こうして在日朝鮮人は増え続け、統計によると1920年に3万人ほどだった在日朝鮮人は、1930年には29万人、1935年には62万人に達した。

 またこの時期、朝鮮人大量移住に大きな役割を果たしたのが、釜山と下関を結んでいた関釜連絡船と、済州島と大阪を結んでいた定期航路船君が代丸である。1920年代後半から1930年代前半にかけて釜山から下関に渡ってきた朝鮮人労働者は年間10~16万人、済州島から大阪へは年間1万5千人~2万人に及んでいる。下関にやってきた朝鮮人労働者は主には、全国各地に散らばっていったが、大阪にやってきた朝鮮人労働者はそのまま大阪にとどまる者が多かったようである(※4)。当時の大阪は「東洋のマンチェスター」と呼ばれるほどのアジア最大の工業都市であり、そこには大規模な労働力市場があった。こうした労働力市場が、生活の糧を求める朝鮮人労働者の最大の受け皿となった。

 

(3)渡航管理制度:植民地時代に朝鮮人は日本国民とされたものの、朝鮮半島と日本内地間の移動の自由はなく渡航管理制度の対象とされた。関東大震災の朝鮮人虐殺を受けた日本政府は治安維持の観点から朝鮮人の内地への渡航を厳格化し、1924年に朝鮮人ニ対スル旅行証明書ノ件を発令、朝鮮人の日本への渡航は治安当局が発行した旅行証明書所持者に限るとした。さらに翌年、渡航制限を強化し、旅行証明書に加え日本での就職先が決まっていることや、乗船時の所持金が10円以上あることなどの条件を設けた。1927年には24万6809人が日本に入国する一方、8万3488人の朝鮮人が渡航を差し止められた。なお日本人は一連の渡航管理制度の対象とはならず、同じ日本国内である植民地朝鮮と内地間には移動の自由が保障されていた。

(4)1924年に大阪で働く工業労働者の出身地を調査した大阪市社会部の報告書によれば、約25万人のうち1万1千人が朝鮮人労働者であった。

 

朝鮮人集落の形成

 韓国併合以降、多くの朝鮮人が日本へ渡り、各地で朝鮮人の集住地域が形成されるようになった。朝鮮人の入居を嫌がる日本人家主が多かったため、朝鮮人は借家できず、空き地や河川敷、埋立地などにバラック小屋を建てて住んだ。そこに同胞が集まって朝鮮人集落が形成された。

 日本で最も早い時期に朝鮮人集落が形成されたのは大阪と考えられる。現在の大阪市東成区東小橋地域では、1909年(明治42年)に「朝鮮町が建設された」(※5) とされるが、この「朝鮮町」は海抜ゼロメートル地帯で、大雨が降ると冠水しやすい劣悪な環境で、日本人が決して住まないような場所であった。

 関西地方では朝鮮人集落が徐々に増えていったが、関東地方では関東大震災の虐殺の影響もあり、朝鮮人集落の形成は1924年以降となった。(※6)東京における大きな朝鮮人集落としては、江東区の深川枝川町とその隣接地域の塩崎町で、1930年代後半に形成された。この枝川町の朝鮮人集落は不衛生なごみの埋立地に長屋を建て、そこに東京府下の朝鮮人たちを移住させて作られた。(※7)

 

(5)『鶴橋・中本方面における朝鮮人の生活概況』(大阪市調査課、1928年)

(6)「彼らの多くは府下における細民住居地帯である三河島町、日暮里町、千住町、南千住町…そして彼らはその殆んど全部がバラック同様の長屋に住居するもので」(『在東京朝鮮人労働者の現状』東京府社会課、1929年)とあり、日本人貧民と混住していたと記述されている。また、横浜市の最初の朝鮮人集落が鶴見区潮田や中区宮川町に形成されたという記録がある。(『朝鮮人生活状態調査』横浜市社会課、1935年)

(7)「戦争のため中止になった東京オリンピックがこの町の誕生の直接の契機だったのだ。かなり以前から東京の海辺、町外れのこの一帯は、トタン一枚をかぶせただけの悲惨な朝鮮人の住まいが転々としてあった。…オリンピックで来る外国人にみっともない姿を見られるのは具合が悪いというので、一ヵ所にまとめて住ませることになった。これが枝川町のそもそもの始まりである。」(『ドキュメント朝鮮人』日本読書新聞社出版部、1965年刊)

 

在日朝鮮人への同化政策

 1930年代半ば、日本政府は急増する在日朝鮮人の現状をふまえ、治安対策の強化と同化政策を柱とする在日朝鮮人政策を実施していった。そして、同化政策を進めていく組織として協和会が各地に開設された。協和会の支部は各地の警察署内に設置され、支部長を警察署長が兼任した。協和会は朝鮮人から民族色を奪う皇民化政策を推進し、その後在日朝鮮人を戦争へ積極的に動員していく役割を担うようになった。

 皇民化政策は、朝鮮人の民族性を抹殺し日本人化することで植民地統治の安定化を図ることを目的とし、宗教や教育など、さまざまな手段を用いて進められた。天皇崇拝を強めるため国家神道の強要が行われ、各地の協和会では在日朝鮮人の神社参拝が義務付けられた。学校においては、朝鮮語の使用を禁止して日本語の常用を強要した。また、朝鮮の姓名を日本式の氏名に変えさせる創氏改名が行われた。

 1939年には在日朝鮮人に対する同化政策、戦争協力体制、監視統制の強化を図り、中央協和会が設立された。中央協和会は朝鮮人に対し協和会手帳の所持を義務化した。協和会手帳には本人の顔写真が貼付、住所・職業・生年月日、皇国臣民の誓詞などが記載された。これは戦後の外国人登録証の原型になっている。

 

戦争の激化と朝鮮人動員政策(1937~1945年)

 1937年に始まった日中戦争によって、日本では多くの民間人が軍隊にかりだされ、企業の労働力不足が深刻化した。日本政府は1938年3月に国家総動員法を制定し、労働力の確保に乗り出した。これにより多くの在日朝鮮人が炭鉱や土木作業現場に動員されていったが、それだけでは労働力不足は解消されなかった。日本政府は企業の強い要請を受け、朝鮮半島から8万5000人の労働者を募集する許可を各企業に与えた。募集当初は応募者が殺到したが、日本での劣悪・苛酷な労働環境が広く知れ渡り、次第に募集が困難になった。

 1941年に日本は太平洋戦争に突入し、労働力不足は加速した。日本政府は1942年2月、行政・警察力の行使が伴い、募集よりも行政的強制力のある官斡旋方式による朝鮮人の動員を開始した。

 それでも、アジア・太平洋戦争の拡大により、労働力不足が解消されず、日本政府は1942年10月国民徴用令を在日朝鮮人に対して発動した。しかし、在日朝鮮人からの反発は強く、出頭命令に対して多くの拒否者が出た。さらに1944年4月、日本政府は朝鮮半島に徴用令を発動した。朝鮮人たちは激しい抵抗を示すが、警察力を動員し、大量の労働者を強制連行した。このように強制連行された朝鮮人労働者はさまざまな研究から70万~80万人といわれている。

 

 

在日コリアンの歴史2‐解放後編

 

 

解放直後の在日コリアン‐帰還と残留

 1945年8月15日、日本の敗戦とともに朝鮮半島は植民地支配から解放された。解放直後、日本には約210万人の朝鮮人がいたが、1947年末までに約140万人が帰還したといわれている。

 これら朝鮮人の帰還事業は混乱を極めた。日本軍関係者や企業は積極的に帰還事業を進めていった。その理由としては、強制連行や強制労働問題が連合国側から追及されることを恐れたこと、朝鮮人たちが暴動を起こすのを危惧したことが挙げられる。そのような中で、浮島丸沈没事故という大惨事も起こった。

 日本政府と連合国軍総司令部(GHQ)は朝鮮半島に帰還した在日朝鮮人が日本に再入国することを基本的に禁止したため、朝鮮半島と日本間を自由に行き来することはできなくなった。朝鮮人の中にはすでに日本に生活基盤を持っていることや帰還時に財産の持ち帰り制限がされたこと、解放されたばかりの朝鮮半島が政治的・社会的にも混乱状況にあることなどが理由となって帰還を見合わせた人が多かった。こうして約60万人が日本にとどまることになった。

 このように在日朝鮮人が生み出された歴史的背景には、朝鮮植民地支配によって日本に住むことを余儀なくされた事情だけでなく、解放後に朝鮮人の日朝間の往来を制限した日本政府やGHQの政策そして朝鮮半島の不安定な状況を重要な要因として数えることができる。

 

浮島丸沈没事故

1945年8月24日、青森県大湊海軍警備府(現むつ市)の軍用濠建設のため強制連行された人々を朝鮮半島に送り返す途中、その輸送船であった海軍輸送艦浮島丸が舞鶴港沖で爆発、沈没し、500名以上の死者を出した。軍部が連合国側からの追及を恐れ、急いで送還中の大事故であった。

 

朝連と民団の結成

 解放直後、多くの在日朝鮮人は朝鮮半島での新国家建設を願っており、帰国に備えるために、在日朝鮮人による自主的な組織を作り、子どもたちに朝鮮語を習得させるための民族教育の場を作り出すことに着手していった。

 1945年10月15日に在日朝鮮人連盟(朝連)が結成された(全国に47地方本部)。朝連の主な活動は政治犯釈放運動、帰国事業、権益事業、教育事業などであるが、とくに民族学校の建設、運営には大きな力を注いだ。子どもたちに朝鮮語を教えるために全国各地に開設された国語講習所は、やがて民族学校へと再編されていったが(※1)、朝連は教員育成や教科書製作に力を入れ、民族学校の充実を図った。

 多くの在日朝鮮人から支持を受けていた朝連であるが、朝連の指導部のほとんどが共産主義者であり、戦前の親日派などは指導部から排除されていた。そのことに不満を抱いていた人たちが「反共主義」の立場を鮮明にしながら、1946年10月に在日本朝鮮居留民団(民団)を発足させた。

 このようにして在日朝鮮人社会には朝連と民団の対立の構図ができあがっていったが、当時は朝連の規模のほうが大きく、運動を主導していた。

 

(1)民族学校の数は、1946年10月当時で初級学校525校(児童数4万2182人)、中学校4校(生徒数1180人)、青年学校10校(生徒数714人)に達した。

 

朝鮮半島の分断と在日コリアン社会

 米ソ冷戦の影響を直接受けた朝鮮半島が分断の方向に進み、1948年8月に大韓民国(以下、韓国)が樹立した。民団は韓国政府支持を表明し、初代大統領の李承晩は同10月に民団を公認団体として認定した。これを受けて民団は在日本大韓民国居留民団と改称した。

 一方、1948年9月に朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)が建国されると、朝連は北朝鮮政府を支持した。連合国軍総司令部(GHQ)と日本政府は朝連への弾圧を強め、1949年9月強制的に朝連を解散させ資産を没収した。その後、朝連系の左派の人々は1951年在日朝鮮統一民主戦線(民戦)を結成した。当時の朝鮮半島情勢の緊迫化に伴い、在日コリアン社会ではあらゆる階層・分野の団体が南北どちらかを支持する姿勢を打ち出し、対立構図が鮮明になっていった。

 

1945年~1950年代の在日コリアンの生活

 朝鮮半島にいずれ帰国しようという思いを抱きながらも日本に残留した在日コリアンの多くの生活基盤は非常に弱いものであった。

 解放直後は、日本社会の物資不足の中、闇市場での取引によって生計を立てる在日コリアンも多かった。しかし、日本の治安強化と経済復興がなされていく中で、闇市場が消滅していった。当時在日コリアンの失業率は7割近くといわれ、非常に高く、生活保護を受ける世帯が急増した。

 1950年代に入っても帰還の見通しが立たないまま、日本在住が既成事実化してゆく中、在日コリアンには零細な自営業を営む人が多く、また日本人が職業として選ばない分野で働くことが多かった。在日朝鮮人商工連合会が1956年に発表した調査報告書によれば、「くず鉄・古物集荷」業が最も多く、パチンコ業、飲食店経営と続く結果であった。このような自営業者、有職者は在日コリアンの4割程度であり、失業・半失業にある在日コリアンの増大は大きな問題となっていた。

 

総聯の結成と帰国事業

 1950年6月25日に始まった朝鮮戦争は数多くの犠牲者を生み出し、1953年7月27日に休戦協定が結ばれた。朝鮮半島の分断は固定化され、在日コリアン社会にも大きな影響を及ぼした。

 1954年8月北朝鮮政府は、「在日朝鮮人は共和国の公民である」という南日外相の声明を発表した。このような中、左派系の人々は1955年5月、民戦を解散し、在日本朝鮮人総聯合会(総聯)を結成した。総聯は日本への内政不干渉という立場をとり、朝鮮革命の一翼を担うことを重要な使命とした(※2)。北朝鮮政府は、在日コリアンの権利擁護を日本政府に訴え、在日コリアンを支援するという提案を打ち出した。これは日本社会で差別と貧困の苦しい生活を続ける在日コリアンにとって、希望を感じさせるものであった。

 一方、韓国政府は在日コリアンの権利擁護については関心が薄く、在日コリアンへの支援策を積極的には打ち出さなかった。

 在日コリアンの中には、復興が進む北朝鮮で国家建設に参加したいと考える者も出て、北朝鮮への「帰国」を求める運動が高まった。総聯は北朝鮮への帰国について大きく宣伝した。北朝鮮政府は在日コリアンの帰国後の安定的な生活を約束し、また帰国にかかる一切の費用を負担することを表明した。日本政府にとっても、共産主義思想を持った在日コリアンを日本から排除でき、在日コリアンの貧困者にかかる生活保護費の削減もできる好都合なものと考え、積極的に推進した。

 韓国政府は、在日コリアンを北朝鮮に送ることに強く抗議し、帰国を進めることは「反友好的な行為」であるとして、日本政府に対して警告した。しかし日本は結局「人道的な理由」によって在日朝鮮人の帰国を認めることを表明した。そして、日本と北朝鮮の赤十字の間で協定が結ばれ、1959年から在日朝鮮人の帰国事業が始まった。この帰国事業は赤十字が実務を担い、1980年代まで行われ、約9万3千人が日本から北朝鮮に渡った(その内約6,600人の日本国籍者が含まれる。)

 同年9月に総聯の代表団と会談した金日成首相は、在日コリアンのための「教育費、奨学金の送金」、「学生の祖国での勉学の受け入れ」を表明し、「帰国希望者を歓迎する」とした。

 

(2)綱領の一つ目に「在日全朝鮮人同胞を朝鮮民主主義人民共和国のまわりに総結集させ…」とある。

 

日韓条約の締結

 1960年3月、韓国の大統領・副大統領選挙で李承晩大統領は大規模な不正投票を実行させ、それに怒った青年・学生層をはじめとした韓国国民が全国的に大規模な反対運動を行った。4月19日に起こったいわゆる「4.19革命」によってその反対運動は頂点を極め、結果、李承晩政権は崩壊した。そのような大きな混乱状況にあった韓国において、1961年5月アメリカの支援を受けて軍事クーデターがおき、朴正煕を大統領とした軍事政権が誕生した。

 在日コリアン社会では、総聯が軍事政権を厳しく非難するとともに、民団の中にも軍事政権を批判する人々も多かった。とくに青年・学生内で、韓国の青年・学生との連帯感を強く意識しながら、軍事政権に反対する声が高まった。

 朴政権は1965年、日本との間で日韓条約(日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約)を締結し、1945年の朝鮮半島解放から20年を経て、日韓間の国交が回復された。この日韓条約とともに、日韓法的地位協定(日本国に居住する大韓民国国民の法的地位及び待遇に関する日本国と大韓民国との間の協定)が結ばれた。ここで在日コリアンの法的処遇について取り決められたが、重要な点は韓国籍を持つ在日コリアンのみに日本政府が協定永住という在留資格を与えるというものであった。これはすなわち朝鮮籍保持者には永住資格を与えないということであり、在日コリアン社会にさらに深い分断を持ち込んだ。韓国政府と民団の韓国籍への変更促進運動とそれを支援する日本政府の方針もあり、結果的に、協定永住資格申請の締め切り時点では韓国籍と朝鮮籍の比率はほぼ半々になっていた。

 

在日コリアンの定住化~差別との闘い

 1960年代から70年代にかけて、在日コリアンの定住化がますます進む中、日本社会における個人の生活権や人権を擁護・確立するための運動が現れた。就職差別や、入居差別、結婚差別などの民族差別が日本社会のいたるところで起きている状況の中で、1970年代半ばから民族差別に反対する団体も生まれ、在日コリアンの民族差別撤廃運動が高まった。

◇日立就職差別裁判
 1970年に朴鐘碩さんが日立製作所に入社試験を受け合格するが、韓国籍であることが判明すると、解雇される事件が起きた。(※「差別事例」日立就職差別裁判へ)

◇社会制度上の国籍条項撤廃運動
 在日コリアンが多く住む大阪では、公営住宅の入居差別や児童手当の支給要件に設けられた国籍条項の撤廃を求める運動が活発になり、1974年には15の市民団体が大阪府に対して公営住宅への入居差別の撤廃や児童手当の支給、国民年金の適用を求めた。その結果、翌年大阪府と大阪市は公営住宅への在日コリアンの入居、住宅金融公庫・国民金融公庫の利用を認めるようなった。

 全国的には、1982年、日本政府が難民条約を批准したことを受け、内外人平等のための法整備の必要性に迫られ、国民年金法、児童扶養手当法、特別児童扶養手当法、児童手当法からの国籍条項の撤廃を決めた。ただし、経過措置の不備のため高齢者等の無年金という深刻な差別が現在も大きな問題として残されている。

◇司法修習における国籍差別撤廃運動
 1976年、司法試験に合格した金敬得さんは、日本国籍を持たないことを理由に司法修習生への採用が許可されなかった。それまで司法試験を受けて合格した在日コリアンは10数名いたが、日本国籍を取得し弁護士となった人ばかりであった。金敬得さんは日本国籍取得を拒否し最高裁判所に請願書を送った。それとともに「金敬得さんを支援する会」が発足、抗議運動が始まった。1977年3月、最高裁は「日本国籍がないことを理由に不採用としない」という決定を下し、初めて外国籍を保持したまま司法修習生として採用されたのである。これ以降、弁護士資格については事実上国籍条項が撤廃されたことになるとともに、在日コリアンが公務員になれないという状況にも目が向けられていくことになり、のちの公務就任における国籍条項撤廃運動へとつながっていった。